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明暗 第百八十八章

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明暗 第百八十八章

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夏目漱石

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 津田は清子の剥いてくれた林檎に手を触れなかった。

「あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ」

「そうね、そうしてあなたがまたわざわざそれをここまで持って来て下すったんですね。その御親切に対してもいただかなくっちゃ悪いわね」

 清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片を手に取った。しかしそれを口へ持って行く前にまた訊いた。

「しかし考えるとおかしいわね、いったいどうしたんでしょう」

「何がどうしたんです」

「私吉川の奥さんにお見舞をいただこうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまたあなたが持って来て下さろうとはなおさら思わなかったのよ」

 津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔をじっと見守った清子の眼に、判然した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。

「ああこの眼だっけ」

 二人の間に何度も繰り返された過去の光景が、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だからすべての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げかけるように見えた。したがって彼女の眼は動いても静であった。何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権をもって生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。

 二人はついに離れた。そうしてまた会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、やっぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。

「それはあなたの美くしいところです。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然教えて下さい」

 津田の疑問と清子の疑問が暫時視線の上で行き合った後、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退き方を見た。そうしてそこにも二人の間にある意気込の相違を認めた。彼女はどこまでも逼らなかった。どうでも構わないという風に、眼をよそへ持って行った彼女は、それを床の間に活けてある寒菊の花の上に落した。

 眼で逃げられた津田は、口で追かけなければならなかった。

「なんぼ僕だってただ吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」

「でしょう、だから変なのよ」

「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立してここへ来ようと思ってるところへ、奥さんに会って、始めてあなたのここにいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産まで頼まれちまったんです」

「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」

「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そうあなたのように……」

「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」

 津田はつい「こっちでもその訳を訊きに来たんだ」と云いたくなった。しかし何にもそこに頓着していないらしい清子の質問は正直であった。

「それであなたもどこかお悪いの」

 津田は言葉少なに病気の顛末を説明した。清子は云った。

「でも結構ね、あなたは。そういう時に会社の方の御都合がつくんだから。そこへ行くと良人なんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」

「関君こそ酔興なんだから仕方がない」

「可哀想に、まさか」

「いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」

「まあ、お上手だ事」

 この時下から急ぎ足で階子段を上って来る草履の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。すると先刻とは違った下女がそこへ顔を出した。

「あの浜のお客さまが、奥さまにお午から滝の方へ散歩においでになりませんか、伺って来いとおっしゃいました」

「お供しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際に津田の方を見ながら「旦那様もいっしょにいらっしゃいまし」と云った。

「ありがとう。時にもうお午なのかい」

「ええただいま御飯を持って参ります」

「驚ろいたな」

 津田はようやく立ち上った。

「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。

「あなたはいつごろまでおいでです」

「予定なんかまるでないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」

 津田は驚ろいた。

「そんなものが来るんですか」

「そりゃ何とも云えないわ」

 清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。

――未完――