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明暗 第三十二章

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明暗 第三十二章

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夏目漱石

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 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏めようと努力するもののないのに気が付いた。

 餉台の上に両肱を突いた叔父が酔後の欠を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物を勝手へ運ばした。先刻から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。

 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。

 半日以上の暇を潰したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌な吉川夫人とその綺麗な応接間とを記憶の舞台に躍らした。つづいて近頃ようやく丸髷に結い出したお延の顔が眼の前に動いた。

 彼は座を立とうとして小林を顧みた。

「君はまだいるかね」

「いや。僕ももう御暇しよう」

 小林はすぐ吸い残した敷島の袋を洋袴の隠袋へねじ込んだ。すると彼らの立ち際に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。

「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰をしている。宜しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑で困るだろうね、彼の女も。いったい何をして暮してるかね」

「何って別にする事もないでしょうよ」

 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後からつけ足した。

「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」

「感心じゃないか。お前のようなお洒落にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」

「ありがたい仕合せだな」

「芝居はどうだい。近頃行くかい」

「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」

 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。

「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」

「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」

「お厭ですか」

「厭より、いつの事だか分らないからね」

 芝居場などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻いて見せた。

「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」

 叔母はふふんと笑った。

「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」

「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」

 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。

「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」

 叔父は笑うだけであった。

「兄貴は怒ってるんだろう」

「いったいお秀がまた余計な事を云ってやるからいけない」

 津田は少し忌々しそうに妹の名前を口にした。

「お秀に咎はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」

「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺から送って貰った金を、きちんきちん返す奴があるもんですか」

「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」

「もう解りましたよ、叔母さん」

 津田はとても敵わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。