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明暗 第三十五章

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明暗 第三十五章

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夏目漱石

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 インヴァネスを着た小作りな男が、半纏の角刈と入れ違に這入って来て、二人から少し隔った所に席を取った。廂を深くおろした鳥打を被ったまま、彼は一応ぐるりと四方を見廻した後で、懐へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他の客を、見ないようにして見始めた。その相間相間には、ちんちくりんな外套の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭を撫でた。

 先刻から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。

「何だか知ってるか」

 津田は元の通りの姿勢を崩さなかった。ほとんど返事に価しないという口調で答えた。

「何だか知るもんか」

 小林はなお声を低くした。

「あいつは探偵だぜ」

 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口を干した。小林はすぐそれへなみなみと注いだ。

「あの眼つきを見ろ」

 薄笑いをした津田はようやく口を開いた。

「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」

「社会主義者?」

 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。

「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然るべきだかよく考えて見ろ」

 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。

「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」

 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。

「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃で汚れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢ないんだ。馬鹿にするな」

 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追かけて来た。

「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜の小説を読んだろう」

 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。

「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」

「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」

「先生に訊くと、先生はありゃ嘘だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器に盛って、感傷的に読者を刺戟する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」

 小林の言葉はだんだん逼って来た。しまいに彼は感慨に堪えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布の上に落した。