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明暗 第三十九章
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夏目漱石
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あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜寝るまで全く予想していなかった不意の観物によって驚ろかされた。
彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟に盛粧したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩らした。
「今御眼覚?」
津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡をかけた大丸髷と、派出な刺繍をした半襟の模様と、それからその真中にある化粧後の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃えて、渋紙の上へ載せてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
津田はまた改めて細君の服装を吟味するように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟だからね」
彼はすぐ心の中でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって妾……」
津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装をして、あのお医者様へ夫婦お揃いで乗り込むのは、少し――」
「辟易?」
お延の漢語が突然津田を擽った。彼は笑い出した。ちょっと眉を動かしたお延はすぐ甘垂れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍してちょうだいよ、ね」
津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急き立てられでもするように世話しなく聞いた。
普通の食事を取らない彼の朝飯はほとんど五分とかからなかった。楊枝も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものを纏めなくっちゃ」
津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後にある戸棚を開けた。
「ここに拵えてあるからちょっと見てちょうだい」
よそ行着を着た細君を労らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄と小さな風呂敷包を、自分の手で戸棚から引き摺り出した。包の中には試しに袖を通したばかりの例の褞袍と平絎の寝巻紐が這入っているだけであったが、鞄の中からは、楊枝だの歯磨粉だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折が挟んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
こう云った津田は、それがこの大部の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択ってちょうだい」
津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰め込んだ。