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明暗 第四十四章
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夏目漱石
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津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
不審よりも不平な顔をした彼が、向を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速に働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢ね」
津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究していいか見当がつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
彼女の眉がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
不幸にして津田にはその変なところが明暸に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
お延は微かな溜息を洩らしてそっと立ち上った。いったん閉て切った障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干に隙間なく吊されたワイ襯衣だのシーツだのが、先刻見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
お延が小さな声で独りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然籠の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍に縛りつけておくのが少し可哀相になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂のないのに困った。お延も欄干に身を倚せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上って来た。
「どうもお待遠さま」
津田の膳には二個の鶏卵と一合のソップと麺麭がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
津田は床の上に腹這になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
お延はすぐ肉匙の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃおいでよ」
二人はこういう会話と共に午飯を済ました。