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明暗 第五十章

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明暗 第五十章

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夏目漱石

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 岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰った戸の隙間から中を覗いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後へ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体の位置を変るのさえ臆劫そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後を向いた。

「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう」

 一夜作りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生っ白い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帯をわざと下の方へ締めたその色男は、素足に雪駄を穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分後を向いて、小声でお延に話しかけた。

「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」

 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊いた。

「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居へ行くなんて不埒千万だとか何とか。え? きっとそうだろう」

「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」

「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」

 小声でさえ話をするものが周囲に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。

「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」

「あたし心配なんかしちゃいないわ」

「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ」

「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」

 お延は煩さそうに眉を動かした。面白半分調戯って見た岡本は少し真面目になった。

「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」

 お延の眼は急に舞台を離れた。

「理由っていったい何」

「今ここじゃ話し悪いがね。いずれ後で話すよ」

 お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。

「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」

 先刻まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。

「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部から」

 二人の会話はそこで途切れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分経つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。

「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」

 叔父はすぐ返事を伝えさせた。

「承知しました」

 男はまた戸をそっと閉てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。