← 作品

明暗 第五十二章

title

明暗 第五十二章

author

夏目漱石

body

 叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食み出している大々した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲らしていた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。しかし咄嗟の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換すまで、ついに互を認め合わなかった。

 夫人に投げかけた一瞥についで、お延はまたその傍に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻廊下で継子といっしょになって、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。

 簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好さんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人であるかを知らずにしまった。

 席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐った。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子へ腰を下ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇した。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。

「どうですかけたら」

 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。

「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。

「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」

 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先を越すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙い感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心らしい様子を、食卓越に眺めた時、ますます強固にされた。

 継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も利かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中には、ほとんど苦痛に近い或物が見透された。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。

 調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。

「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」

 ちょうど叔母と話を途切らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。

「ええ何でも致しましょう」

「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」

 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。

「また独逸を逃げ出した話でもするがいい」

 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。

「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他よりも自分の方が陳腐になってしまいました」

「あなたのような落ちついた方でも、少しは周章たでしょうね」

「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」

「でも殺されるとは思わなかったでしょう」

「さよう」

 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。

「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」

「なぜです。人間がずうずうしいからですか」

「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」

 継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。