← 作品

明暗 第五十七章

title

明暗 第五十七章

author

夏目漱石

body

 津田の宅とほぼ同じ方角に当る岡本の住居は、少し道程が遠いので、三人の後に随いたお延の護謨輪は、小路へ曲る例の角までいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女は幌の中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知らず調子を踏み外して、一人圏外にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅の玄関を上った。

 下女は格子の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶さえいつものように快い音を立てなかった。今朝見たと何の変りもない室の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体を、長火鉢の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。

 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽させた。

 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母しかった。

「早く玄関を締めてお寝。潜りのはあたしがかけて来たから」

 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継ぎ足した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸かした。しかし夜更に鳴る鉄瓶の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼ってくる孤独の感が、先刻帰った時よりもなお劇しく募って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋しみに比べると、遥かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐かしそうに心の眼で眺めた。

「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」

 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食ついていなかった。二人の間に何だか挟まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。

 こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱かずにすんだろうにという気ばかり強くした。

 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜書きかけた里へやる手紙の続を書こうと思って、筆を執りかけた彼女は、いつまで経っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟するので、彼女は焦らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。