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明暗 第六十章

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明暗 第六十章

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夏目漱石

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 岡本の邸宅へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出した。羽織も着ずに、兵児帯をだらりと下げて、その結び目の所に、後へ廻した両手を重ねた彼は、傍で鍬を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。

「来たね。今庭いじりをやってるところだ」

 植木屋の横には、大きな通草の蔓が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。

「そいつを今その庭の入口の門の上へ這わせようというんだ。ちょっと好いだろう」

 お延は網代組の竹垣の中程にあるその茅門を支えている釿なぐりの柱と丸太の桁を見較べた。

「へえ。あの袖垣の所にあったのを抜いて来たの」

「うんその代りあすこへは玉縁をつけた目関垣を拵えたよ」

 近頃身体に暇ができて、自分の意匠通り住居を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答っているよりほかに仕方がなかった。

「食後の運動には好いわね。お腹が空いて」

「笑談じゃない、叔父さんはまだ午飯前なんだ」

 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住、住」と大きな声で叔母を呼んだ。

「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」

「だから先刻みんなといっしょに召上がれば好いのに」

「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一物に区切のあるという事をあなたは御承知ですか」

 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経たない、云わば新生活の門出にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。

 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据えられた膳に向って胡坐を掻きながら、彼女を見た。

「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」

 お延はすぐ答えた。

「久しぶりにお給仕でもしましょう」

 飯櫃があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。

「御給仕をしたくったって、麺麭だからできないよ」

 下女が皿の上に狐色に焦げたトーストを持って来た。

「お延、叔父さんは情けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想だろう」

 糖尿病の叔父は既定の分量以外に澱粉質を摂取する事を主治医から厳禁されてしまったのである。

「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」

 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生のままで供えられた。

 むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。

「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」

 叔父は叔母を顧みた。

「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」