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明暗 第六十九章

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明暗 第六十九章

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夏目漱石

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 ところへ何にも知らない継子が、語学の稽古から帰って来て、ひょっくり顔を出した。

「ただいま」

 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出した人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶を返した。

「お帰んなさい」

「遅かったのね。先刻から待ってたのよ」

「いや大変なお待兼だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」

 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁であった。

「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」

 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。

 しかし下女が襖越に手を突いて、風呂の沸いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。

「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」

 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。

 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。

「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」

 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。

「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」

 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。

「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。

「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」

「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」

 叔母は婉曲に自己を表現した。

「おおかたいらっしゃらないでしょう」

「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」

 お延は笑い出した。

「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」

「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」

 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。

 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧みない叔母の態度は、お延にとって羨ましいものであった。また忌わしいものであった。女らしくない厭なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯した。

 立って行く叔母の後姿を彼女がぼんやり目送していると、一人残った継子が突然誘った。

「あたしのお部屋へ来なくって」

 二人は火鉢や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。