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明暗 第七十七章
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夏目漱石
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お延は叔父の送らせるという俥を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁の方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
肥っていて呼息が短いので、坂を上るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
二人は途々夜の更けた昨夕の話をした。仮寝をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家にいたという縁故で、新夫婦二人ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想いやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日の結果を、今度は繰り返させたくないという主意からであった。
彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
車内のお延は別に纏まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩しい影像を一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定しなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効をもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。
玄関の格子を開ける音と共に、台所の方から駈け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切した態度を、さも自分の手柄ででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊いた。
「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」
お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も来やしなかったろうね」
するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高な返事をした。
「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」
夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利いた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套を取りにいらっしゃいました」
夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作のように込み上げてくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。