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明暗 第八十一章

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明暗 第八十一章

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夏目漱石

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 袖を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさを噛み殺そうとして、お延の前で悶え苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。

 この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を締めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見の前に立ち竦んだ彼女は当惑の眉を寄せた。仕方がないので、今出がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人に引を取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間が逼っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支えないものと独りで合点しているらしかった。

 彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に跟けられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指されているのだろうという説明までして聴かせた。

 彼の談話には気の弱い女に衝撃を与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々ながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途がなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕お延とお時をさんざ笑わせた外套の件にほかならなかった。

「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」

 彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。

 お延はすぐ入用の品を箪笥の底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。

「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡った彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性をよく知っていた。着古した外套一つが本で、他日細君の手落呼わりなどをされた日には耐らないと思った。

「大丈夫ですよ、くれるって云ったに違ないんだから。嘘なんか吐きやしませんよ」

 出してやらないと小林を嘘吐としてしまうようなものであった。

「いくら酔払っていたって気は確なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」

 お延はとうとう決心した。

「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」

「奥さんは実に几帳面ですね」と云って小林は笑った。けれどもお延の暗に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。

「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」

 お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。

 お時が自働電話へ駈けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。ところがその談話は突然な閃めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍らせた。