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明暗 第八十三章

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明暗 第八十三章

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夏目漱石

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 特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。

「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」

 小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。

「何がです、今僕の云った事がですか」

「いいえ、そんな事じゃないの」

 お延は巧みに相手を岐路に誘い込んだ。

「あなた先刻おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」

 小林は元へ戻らなければならなかった。

「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」

「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」

「ええ変りましたね」

 お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯われる自分じゃないという態度を見せたのである。

「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」

 今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部から覗いてもとうてい判りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。

「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」

 小林は大きな声を出して笑った。

「奥さんはなかなか空惚ける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」

「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」

「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨いお手際をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」

 お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩さい顔もしなかった。愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。

「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」

「何を」

 藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。誘き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。

「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」

 小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。お延はつんとして答えた。

「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」

「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」

「ありがとう」

 お延はさも軽蔑した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥めるような口調で云った。

「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」

「わたくしは結婚前から津田を知っております」

「しかしその前は御存じないでしょう」

「当り前ですわ」

「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」

 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯って行った。