← 作品

明暗 第八十五章

title

明暗 第八十五章

author

夏目漱石

body

 小林の顔には皮肉の渦が漲った。進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。

「何という陋劣な男だろう」

 お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨めっ競をしていた。すると小林の方からまた口を利き出した。

「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」

 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。

「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫も変らないのです。これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」

 小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。

「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」

 小林の眼は据わっていた。お延は何という事もできなかった。

「まあ」

「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」

「そんな馬鹿な事があるもんですか」

「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」

「あなたもずいぶん僻んでいらっしゃるのね」

「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」

 小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。

「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑されても存分な讐討ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」

 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当て篏って、毫も悖らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。

「吃驚りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」

 小林は多少溜飲の下りたような顔をした。

「奥さんは先刻から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」

 小林はまた大きな声を出して笑った。