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明暗 第八十六章
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夏目漱石
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お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目さが疑がわれた。反抗、畏怖、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯したいろいろなものはけっして一点に纏まる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊いた。
「じゃあなたは私を厭がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套を貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「つまりそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。しかし本望かも知れません」
「目的と本望とどこが違うんです」
「違いませんかね」
お延の細い眼から憎悪の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性がありありと瞳子の裏に宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡から敵打をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」
小林の筋の運び方は、少し困絡かり過ぎていた。お延は彼の論理の間隙を突くだけに頭が錬れていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴むだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏めて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負わないというんでしょう」
「ええそこです。そこが僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」
「どうして」
小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高を括ったように落ちついている小林の態度がまた癪に障った。そこへ先刻から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠まりは、一定した様式の下に表現される機会の来ない先にまた崩されてしまわなければならなかった。