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明暗 第八十七章
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夏目漱石
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お時は縁側へ坐って外部から障子を開けた。
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」
「いいえかけたんでございます」
「かけても通じなかったのかい」
問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑み込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸であった。それから判切聞こえるところも辻褄の合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦らめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのまま宅へ帰るのが厭だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」
お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざん厭な思いをさせられたのだと思うと、気を利かした下女がかえって恨めしくもあった。
彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに据えられた銅の金具の光る重ね箪笥の一番下の抽斗を開けた。そうして底の方から問題の外套を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを引ッ繰返した。
「思ったよりだいぶ汚れていますね」
「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著じるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢も云えませんかね」
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けとおっしゃるんですか」
「ええ」
小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」
「ええ、ええ」
お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳み皺が幾筋もお延の眼に入った。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆に行った。
「ちょうど好いようですね」
彼女は誰も自分の傍にいないので、せっかく出来上った滑稽な後姿も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」
「そうですか」
お延は急に口元を締めた。
「奥さんのような窮った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」
小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭でこの冬も生きていられます」
彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他に笑われないようにしないといけませんよ」