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明暗 第九十二章
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夏目漱石
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前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳にちょっと手を出したぎり、また仰向になって、昨夕の不足を取り返すために、重たい眼を閉っていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入りかけた間際だったので、彼は襖の音ですぐ眼を覚ました。そうして病人に斟酌を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
こういう場合に彼らはけっして愛嬌を売り合わなかった。嬉しそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用し悪い黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部の所作だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙し合う手数を省いて、良心に背かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、取も直さず、愛嬌のない顔という事に過ぎなかった。
第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄であった。だから遠慮の要らないという意味で、不愛嬌な挨拶が苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それが災の元で、互の顔を見ると、互に弾き合いたくなった。
ふと首を上げてそこにお秀を見出した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精と不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着なく、言葉もかけずに、そっと室の内に入って来た。
彼女は何より先にまず、枕元にある膳を眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しに引ッ繰り返された牛乳の罎の下に、鶏卵の殻が一つ、その重みで押し潰されている傍に、歯痕のついた焼麺麭が食欠のまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」
実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
お秀は眉をひそめて、膳を階子段の上り口まで運び出した。看護婦の手が隙かなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食の残骸は、掃除の行き届いた自分の家を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」
彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでもいいって云ったのに」
今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ来ようと思ったんですけれども、あいにく昨日は少し差支えがあって――」
お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟の徹らない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗に希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
津田は後を訊かずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって嫂さんが、もし閑があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。