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明暗 第九十四章

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明暗 第九十四章

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夏目漱石

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「またあの事だろう」

 津田はしばらく間をおいて、仕方なしにこう云った。しかしその時の彼はもう例の通り聴きたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。

「だからあたしの方じゃ先刻から用は今度の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」

「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」

「だって、兄さんがそんな厭な顔をなさるんですもの」

 お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈を加える女ではなかった。したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。彼は取り合わずに先へ通り過した。

「また京都から何か云って来たのかい」

「ええまあそんなところよ」

 津田の所へは父の方から、お秀の許へは母の側から、京都の消息が重に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無を心のうちで気遣っていたのである。兄妹の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末の仕払や病院の入費の出所に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡かって、離す事のできない事情の下にある意味合を、お秀よりもよく承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。

「何と云って来たい」

「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」

「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」

 お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ微かに薄笑の影を締りの好い口元に寄せて見せた。それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪だった。平生は単に妹であるという因縁ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟した。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計他の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。

 お秀はやがてきちりと整った眼鼻を揃えて兄に向った。

「それで兄さんはどうなすったの」

「どうもしようがないじゃないか」

「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」

 津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。

「云ってやったさ」

「そうしたら」

「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも家へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」

「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当がついて」

 津田は何とも答えなかった。お延の拵らえてくれた袍の襟を手探りに探って、黒八丈の下から抜き取った小楊枝で、しきりに前歯をほじくり始めた。彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。

「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」

「知らないよ」

 津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。

「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻から訊いてるじゃないか」

 お秀はわざと眼を反らして縁側の方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作の代りに過ぎなかった。

「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」