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明暗 第九十六章

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明暗 第九十六章

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夏目漱石

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「いったいどうしたらいいんでしょう」

 お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩らす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝な姑さえその奥には控えていた。

「そりゃ良人だって兄さんに頼まれて、口は利いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人へ対して困るだけだわ」

 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前に甚だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。むしろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。

 兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。

 津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。

「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面するに違ないとでも思っているのか知ら」

「そこなのよ、兄さん」

 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。

「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」

 微かな暗示が津田の頭に閃めいた。秋口に見る稲妻のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質のものであった。心のうちで劈頭に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。

 臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初に体よく送金を拒絶する。津田が困る。今までの行がかり上堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。それで否応なしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。

 こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟もあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何らの淡泊さがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭い狡獪な所も少しはあった。小額の金に対する度外れの執着心が殊更に目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。

 ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉を顰めなければならなかった。父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫や姑への義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度から成立った父の料簡は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。