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道草 第十一章
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夏目漱石
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その晩細君は土鍋へ入れた粥をもって、また健三の枕元に坐った。それを茶碗に盛りながら、「御起になりませんか」と訊いた。
彼の舌にはまだ苔が一杯生えていた。重苦しいような厚ぼったいような口の中へ物を入れる気には殆んどなれなかった。それでも彼は何故だか床の上に起き返って、細君の手から茶碗を受取ろうとした。しかし舌障りの悪い飯粒が、ざらざらと咽喉の方へ滑り込んで行くだけなので、彼はたった一膳で口を拭ったなり、すぐ故の通り横になった。
「まだ食気が出ませんね」
「少しも旨くない」
細君は帯の間から一枚の名刺を出した。
「こういう人が貴方の寐ていらしゃるうちに来たんですが、御病気だから断って帰しました」
健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷ったその名刺を受取って、姓名を読んで見たが、まだ会った事も聞いた事もない人であった。
「何時来たのかい」
「たしか一昨日でしたろう。ちょっと御話ししようと思ったんですが、まだ熱が下らないから、わざと黙っていました」
「まるで知らない人だがな」
「でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ」
細君はとくに島田という二字に力を入れてこういいながら健三の顔を見た。すると彼の頭にこの間途中で会った帽子を被らない男の影がすぐひらめいた。熱から覚めた彼には、それまでこの男の事を思い出す機会がまるでなかったのである。
「御前島田の事を知ってるのかい」
「あの長い手紙が御常さんって女から届いた時、貴方が御話しなすったじゃありませんか」
健三は何とも答えずに一旦下へ置いた名刺をまた取り上げて眺めた。島田の事をその時どれほど詳しく彼女に話したか、それが彼には不確であった。
「ありゃ何時だったかね。よッぽど古い事だろう」
健三はその長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思い出して苦笑した。
「そうね。もう七年位になるでしょう。私たちがまだ千本通りにいた時分ですから」
千本通りというのは、彼らがその頃住んでいた或都会の外れにある町の名であった。
細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺わないでも、御兄さんからも聞いて知ってますわ」といった。
「兄がどんな事をいったかい」
「どんな事って、――なんでも余り善くない人だっていう話じゃありませんか」
細君はまだその男の事について、健三の心を知りたい様子であった。しかし彼にはまた反対にそれを避けたい意向があった。彼は黙って眼を閉じた。盆に載せた土鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。
「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が御癒りになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」
健三は仕方なしにまた眼を開いた。
「来るだろう。どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るに極ってるさ」
「しかしあなた御会いになって? もし来たら」
実をいうと彼は会いたくなかった。細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。
「御会いにならない方が好いでしょう」
「会っても好い。何も怖い事はないんだから」
細君には夫の言葉が、また例の我だと取れた。健三はそれを厭だけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。