title
道草 第二十一章
author
夏目漱石
body
健三はもう少し働らこうと決心した。その決心から来る努力が、月々幾枚かの紙幣に変形して、細君の手に渡るようになったのは、それから間もない事であった。
彼は自分の新たに受取ったものを洋服の内隠袋から出して封筒のまま畳の上へ放り出した。黙ってそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐその紙幣の出所を知った。家計の不足はかくの如くにして無言のうちに補なわれたのである。
その時細君は別に嬉しい顔もしなかった。しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三はまたもし細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求を充たす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。
細君はその折の物足らなさを回復するために、二、三日経ってから、健三に一反の反物を見せた。
「あなたの着物を拵えようと思うんですが、これはどうでしょう」
細君の顔は晴々しく輝やいていた。しかし健三の眼にはそれが下手な技巧を交えているように映った。彼はその不純を疑がった。そうしてわざと彼女の愛嬌に誘われまいとした。細君は寒そうに座を立った。細君の座を立った後で、彼は何故自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考えて益不愉快になった。
細君と口を利く次の機会が来た時、彼はこういった。
「己は決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。ただ自分の有っている温かい情愛を堰き止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」
「誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか」
「御前はしょっちゅうしているじゃないか」
細君は恨めしそうに健三を見た。健三の論理はまるで細君に通じなかった。
「貴夫の神経は近頃よっぽど変ね。どうしてもっと穏当に私を観察して下さらないのでしょう」
健三の心には細君の言葉に耳を傾ける余裕がなかった。彼は自分に不自然な冷かさに対して腹立たしいほどの苦痛を感じていた。
「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない」
二人は互に徹底するまで話し合う事のついに出来ない男女のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった。
健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりに取って、さして困難のものではなかった。ただ彼はそれに費やす時間と努力とを厭った。無意味に暇を潰すという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きているうちに、何かし終せる、またし終せなければならないと考える男であった。
彼がその余分の仕事を片付けて家に帰るときは何時でも夕暮になった。
或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家の玄関の格子を手荒く開けた。すると奥から出て来た細君が彼の顔を見るなり、「あなたあの人がまた来ましたよ」といった。細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでいたので、健三も彼女の様子と言葉から、留守のうちに誰が来たのかほぼ見当が付いた。彼は無言のまま茶の間へ上って、細君に扶けられながら洋服を和服に改めた。