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道草 第二十八章

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道草 第二十八章

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夏目漱石

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 健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。従ってそれを片付けるのも容易であった。ただ簡単に断りさえすれば済んだ。

「しかし一旦は貴方の御耳まで入れて置かないと、私の落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。彼はどこまでもこの会合を真面目なものにしなければ気が済まないらしかった。それで言う事も時によって変化した。

「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」

「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。

「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、私だってその場ですぐ断っちまいまさあ」

 こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、其所へ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。

「いえ何御礼なんぞ御仰られると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。誰が見ても宅へも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。

 彼は其所にある塩煎餅を取ってやたらにぼりぼり噛んだ。そうしてその相間々々には大きな湯呑へ茶を何杯も注ぎ易えて飲んだ。

「相変らず能く食べますね。今でも鰻飯を二つ位遣るんでしょう」

「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」

 比田はその頃から食気の強い男であった。そうして余計食うのを自慢にしていた。それから腹の太いのを賞められたがって、時機さえあれば始終叩いて見せた。

 健三は昔しこの人に連れられて寄席などに行った帰りに、能く二人して屋台店の暖簾を潜って、鮨や天麩羅の立食をした当時を思い出した。彼は健三にその寄席で聴いたしかおどりとかいう三味線の手を教えたり、またはさばを読むという隠語などを習い覚えさせたりした。

「どうもやっぱり立食に限るようですね。私もこの年になるまで、段々方々食って歩いて見たが。健ちゃん、一遍軽井沢で蕎麦を食って御覧なさい、騙されたと思って。汽車の停ってるうちに、降りて食うんです、プラットフォームの上へ立ってね。さすが本場だけあって旨うがすぜ」

 彼は信心を名として能く方々遊び廻る男であった。

「それよか、善光寺の境内に元祖藤八拳指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね、長さん」

「這入って一つ遣って来やしないか」

「だって束修が要るんだからね、君」

 こんな談話を聞いていると、健三も何時か昔の我に帰ったような心持になった。同時に今の自分が、どんな意味で彼らから離れてどこに立っているかも明らかに意識しなければならなくなった。しかし比田は一向そこに気が付かなかった。

「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。彼所に、ちんちらでんき皿持てこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などと訊いた。

 先刻から落付いていた姉が、また劇しく咳き出した時、彼は漸く口を閉じた。そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平を揃えて、黒い顔をごしごし擦った。

 兄と健三はちょっと茶の間の様子を覗きに立った。二人とも発作の静まるまで姉の枕元に坐っていた後で、別々に比田の家を出た。