title
道草 第三十六章
author
夏目漱石
body
彼が何時もの通り服装を改めて座敷へ出た時、赤と白と撚り合せた細い糸で括られた例の書類は兄の膝の上にあった。
「先達ては」
兄は油気の抜けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。
「今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね」
「そうですか」
この大事そうにしまい込まれてあった書付に、兄が長い間眼を通さなかった事を健三は知った。兄はまた自分の弟がそれほど熱心にそれを調べていない事に気が付いた。
「御由の送籍願が這入ってるんだよ」
御由というのは兄の妻の名であった。彼がその人と結婚する当時に必要であった区長宛の願書が其所から出て来ようとは、二人とも思いがけなかった。
兄は最初の妻を離別した。次の妻に死なれた。その二度目の妻が病気の時、彼は大して心配の様子もなく能く出歩いた。病症が悪阻だから大丈夫という安心もあるらしく見えたが、容体が険悪になって後も、彼は依然としてその態度を改める様子がなかったので、人はそれを気に入らない妻に対する仕打とも解釈した。健三もあるいはそうだろうと思った。
三度目の妻を迎える時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。しかし弟には一言の相談もしなかった。それがため我の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉の方にまで影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だと主張して、気の弱い兄を苦しめた。
「なんて捌けない人だろう」
陰で批評の口に上るこうした言葉は、彼を反省させるよりもかえって頑固にした。習俗を重んずるために学問をしたような悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる弊があった。彼は慚愧の眼をもって当時の自分を回顧した。
「送籍願が紛れ込んでいるなら、それを御返しするから、持って行ったら好いでしょう」
「いいえ写しだから、僕も要らないんだ」
兄は紅白の糸に手も触れなかった。健三はふとその日附が知りたくなった。
「一体何時頃でしたかね。それを区役所へ出したのは」
「もう古い事さ」
兄はこれだけいったぎりであった。その唇には微笑の影が差した。最初も二返目も失敗って、最後にやっと自分の気に入った女と一所になった昔を忘れるほど、彼は耄碌していなかった。同時にそれを口へ出すほど若くもなかった。
「御幾年でしたかね」と細君が訊いた。
「御由ですか。御由は御住さんと一つ違ですよ」
「まだ御若いのね」
兄はそれには何とも答えずに、先刻から膝の上に置いた書類の帯を急に解き始めた。
「まだこんなものが這入っていたよ。これも君にゃ関係のないものだ。さっき見て僕もちょいと驚ろいたが、こら」
彼はごたごたした故紙の中から、何の雑作もなく一枚の書付を取り出した。それは喜代子という彼の長女の出産届の下書であった。「右者本月二十三日午前十一時五十分出生致し候」という文句の、「本月二十三日」だけに棒が引懸けて消してある上に、虫の食った不規則な線が筋違に入っていた。
「これも御父さんの手蹟だ。ねえ」
彼はその一枚の反故を大事らしく健三の方へ向け直して見せた。
「御覧、虫が食ってるよ。尤もそのはずだね。出産届ばかりじゃない、もう死亡届まで出ているんだから」
結核で死んだその子の生年月を、兄は口のうちで静かに読んでいた。