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道草 第四十四章
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夏目漱石
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間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった。河岸を向いた裏通りと賑かな表通りとの間に挟まっていた今までの住居も急にどこへか行ってしまった。御常とたった二人ぎりになった健三は、見馴れない変な宅の中に自分を見出だした。
その家の表には門口に縄暖簾を下げた米屋だか味噌屋だかがあった。彼の記憶はこの大きな店と、茹でた大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食った事をいまだに忘れずにいた。しかし自分の新らしく移った住居については何の影像も浮かべ得なかった。「時」は綺麗にこの佗びしい記念を彼のために払い去ってくれた。
御常は会う人ごとに島田の話をした。口惜しい口惜しいといって泣いた。
「死んで祟ってやる」
彼女の権幕は健三の心をますます彼女から遠ざける媒介となるに過ぎなかった。
夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしようとした。また専有物だと信じていた。
「これからは御前一人が依怙だよ。好いかい。確かりしてくれなくっちゃいけないよ」
こう頼まれるたびに健三はいい渋った。彼はどうしても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与える事が出来なかった。
健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろ慾に押し出される邪気が常に働いていた。それが頑是ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。しかしその他の点について彼は全くの無我夢中であった。
二人の生活は僅かの間しか続かなかった。物質的の欠乏が源因になったのか、または御常の再縁が現状の変化を余儀なくしたのか、年歯の行かない彼にはまるで解らなかった。何しろ彼女はまた突然健三の眼から消えて失くなった。そうして彼は何時の間にか彼の実家へ引き取られていた。
「考えるとまるで他の身の上のようだ。自分の事とは思えない」
健三の記憶に上せた事相は余りに今の彼と懸隔していた。それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思い浮べなければならなかった。しかも或る不快な意味において思い浮べなければならなかった。
「御常さんて人はその時にあの波多野とかいう宅へまた御嫁に行ったんでしょうか」
細君は何年前か夫の所へ御常から来た長い手紙の上書をまだ覚えていた。
「そうだろうよ。己も能く知らないが」
「その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね」
健三は波多野の顔さえ見た事がなかった。生死などは無論考えの中になかった。
「警部だっていうじゃありませんか」
「何んだか知らないね」
「あら、貴夫が自分でそう御仰ったくせに」
「何時」
「あの手紙を私に御見せになった時よ」
「そうかしら」
健三は長い手紙の内容を少し思い出した。その中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立ててあった。乳がないので最初からおじやだけで育てた事だの、下性が悪くって寐小便の始末に困った事だの、凡てそうした顛末を、飽きるほど委しく述べた中に、甲府とかにいる親類の裁判官が、月々彼女に金を送ってくれるので、今では大変仕合だと書いてあった。しかし肝心の彼女の夫が警部であったかどうか、其所になると健三には全く覚がなかった。
「ことによると、もう死んだかも知れないね」
「生きているかも分りませんわ」
二人の間には波多野の事ともつかず、また御常の事ともつかず、こんな問答が取り換わされた。
「あの人が不意に遣って来たように、その女の人も、何時突然訪ねて来ないとも限らないわね」
細君は健三の顔を見た。健三は腕組をしたなり黙っていた。