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道草 第六十五章
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夏目漱石
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御常を知らない細君はかえって夫の執拗を笑った。
「それが貴方の癖だから仕方がない」
平生彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の生家との関係について、夫のこの悪い癖が著るしく出ているように彼女は思っていた。
「己が執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と交際った事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべをいうのだ」
「だって現に貴夫の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」
「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは上部だけで腹の中は故の通りなんだ」
「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」
「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」
「随分独断的ね、貴夫も」
「批評が中ってさえいれば独断的で一向差支ないものだ」
「しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分出て来るでしょう。あの御婆さんは私と関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」
健三には細君の言葉が何を意味しているのか能く解った。しかし細君はそれ以上何もいわなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、表向夫と遣り合って行ける所まで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ性質ではなかった。
「面倒臭い」
少し込み入った議論の筋道を辿らなければならなくなると、彼女はきっとこういって当面の問題を投げた。そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さは何時までも辛抱した。しかしその辛抱は自分自身に取って決して快よいものではなかった。健三から見るとなおさら心持が悪かった。
「執拗だ」
「執拗だ」
二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。そうして御互に腹の中にある蟠まりを御互の素振から能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。
我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないとも訊かず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心の中に繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。
「これで沢山だ」
「己もこれで沢山だ」
また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。
それでも護謨紐のように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の伸縮があった。非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢で徐々元へ戻って来た。そうした日和の好い精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉が洩れた。
「これは誰の子?」
健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。しかし彼女はこの時既に自分の胎内に蠢めき掛けていた生の脈搏を感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭に伝えようとしたのである。
「喧嘩をするのはつまり両方が悪いからですね」
彼女はこんな事もいった。それほど自分が悪いと思っていない頑固な健三も、微笑するより外に仕方がなかった。
「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」
健三は立派な哲理でも考え出したように首を捻った。