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道草 第七十五章
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夏目漱石
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「己は精一杯の事をしたのだ」
健三の腹にはこういう安心があった。従って彼は自分の調達した金の価値について余り考えなかった。さぞ嬉しがるだろうとも思わない代りに、これ位の補助が何の役に立つものかという気も起さなかった。それがどの方面にどう消費されたかの問題になると、全くの無知識で澄ましていた。細君の父も其所まで内状を打ち明けるほど彼に接近して来なかった。
従来の牆壁を取り払うにはこの機会があまりに脆弱過ぎた。もしくは二人の性格があまりに固着し過ぎていた。
父は健三よりも世間的に虚栄心の強い男であった。なるべく自分を他に能く了解させようと力めるよりも、出来るだけ自分の価値を明るい光線に触てさせたがる性質であった。従って彼を囲繞する妻子近親に対する彼の様子は幾分か誇大に傾むきがちであった。
境遇が急に失意の方面に一転した時、彼は自分の平生を顧みない訳に行かなかった。彼はそれを糊塗するため、健三に向って能う限りさあらぬ態度を装った。それで遂に押し通せなくなった揚句、彼はとうとう健三に連印を求めたのである。けれども彼がどの位の負債にどう苦しめられているかという巨細の事実は、遂に健三の耳に入らなかった。健三も訊かなかった。
二人は今までの距離を保ったままで互に手を出し合った。一人が渡す金を一人が受け取った時、二人は出した手をまた引き込めた。傍でそれを見ていた細君は黙って何ともいわなかった。
健三が外国から帰った当座の二人は、まだこれほどに離れていなかった。彼が新宅を構えて間もない頃、彼は細君の父がある鉱山事業に手を出したという話を聞いて驚ろいた事があった。
「山を掘るんだって?」
「ええ、何でも新らしく会社を拵えるんだそうです」
彼は眉を顰めた。同時に彼は父の怪力に幾分かの信用を置いていた。
「旨く行くのかね」
「どうですか」
健三と細君との間にこんな簡単な会話が取り換わされた後、彼はその用事を帯びて北国のある都会へ向けて出発したという父の報知を細君から受け取った。すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へ遣って来た。父が旅先で急に病気に罹ったので、これから自分も行かなければならないと思うが、それについて旅費の都合は出来まいかというのが母の用向であった。
「ええええ旅費位どうでもして上ますから、すぐ行って御上なさい」
宿屋に寐ている苦しい人と、汽車で立って行く寒い人とを心から気の毒に思った健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空の佗びしさまで想像の眼に浮べた。
「何しろ電報が来ただけで、詳しい事はまるで分りませんのですから」
「じゃなお御心配でしょう。なるべく早く御立ちになる方が好いでしょう」
幸いにして父の病気は軽かった。しかし彼の手を着けかけたという鉱山事業はそれぎり立消になってしまった。
「まだ何にも見付からないのかね、口は」
「あるにはあるようですけれども旨く纏らないんですって」
細君は父がある大きな都会の市長の候補者になった話をして聞かせた。その運動費は財力のある彼の旧友の一人が負担してくれているようであった。しかし市の有志家が何名か打ち揃って上京した時に、有名な政治家のある伯爵に会って、父の適不適を問い訊したら、その伯爵がどうも不向だろうと答えたので、話はそれぎりでやめになったのだそうである。
「どうも困るね」
「今に何とかなるでしょう」
細君は健三よりも自分の父の方を遥かに余計信用していた。健三も例の怪力を知らないではなかった。
「ただ気の毒だからそういうだけさ」
彼の言葉に嘘はなかった。