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道草 第八章

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道草 第八章

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夏目漱石

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「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」

 こんな簡単な質問さえ姉には判然答えられなかった。健三は少し的が外れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の居所を突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。彼はこの場合まだそれほどの手数を尽す必要がないと信じていた。たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。その上今の彼はこういう好奇心を軽蔑しなければならなかった。彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。

 彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。

 其所には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼い色が湧いて厭な臭さえ彼の鼻を襲った。彼はその汚ならしい一廓を――様の御屋敷という名で覚えていた。

 堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。

 この御屋敷と反対の側には小さな平家が疎らに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃに交っていたその町並は無論不揃であった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居を拵えたのである。

 健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。しかし彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。四間しかない狭い家だったけれども、木口などはかなり吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取にも工夫があった。六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎるほど立派な御影の石燈籠が据えてあった。

 綺麗好きな島田は、自分で尻端折りをして、絶えず濡雑巾を縁側や柱へ掛けた。それから跣足になって、南向の居間の前栽へ出て、草毟りをした。あるときは鍬を使って、門口の泥溝も浚った。その泥溝には長さ四尺ばかりの木の橋が懸っていた。

 島田はまたこの住居以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路を付けた。裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹んだ所などはしょっちゅう浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てるつもりでいるらしかった。しかしその企ては何時までも実現されなかった。冬になると鴨が下りるから、今度は一つ捕ってやろうなどといっていた。……

 健三はこういう昔の記憶をそれからそれへと繰り返した。今其所へ行って見たら定めし驚ろくほど変っているだろうと思いながら、彼はなお二十年前の光景を今日の事のように考えた。

「ことによると、良人では年始状位まだ出してるかも知れないよ」

 健三の帰る時、姉はこんな事をいって、暗に比田の戻るまで話して行けと勧めたが、彼にはそれほどの必要もなかった。

 彼はその日無沙汰見舞かたがた市ヶ谷の薬王寺前にいる兄の宅へも寄って、島田の事を訊いて見ようかと考えていたが、時間の遅くなったのと、どうせ訊いたって仕方がないという気が次第に強くなったのとで、それなり駒込へ帰った。その晩はまた翌日の仕事に忙殺されなければならなかった。そうして島田の事はまるで忘れてしまった。