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道草 第八十七章

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道草 第八十七章

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夏目漱石

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 この会話がまだ健三の記憶を新しく彩っていた頃、彼は御常から第二回の訪問を受けた。

 先達て見た時とほぼ同じように粗末な服装をしている彼女の恰好は、寒さと共に襦袢胴着の類でも重ねたのだろう、前よりは益丸まっちくなっていた。健三は客のために出した火鉢をすぐその人の方へ押し遣った。

「いえもう御構い下さいますな。今日は大分御暖かで御座いますから」

 外部には穏やかな日が、障子に篏めた硝子越に薄く光っていた。

「あなたは年を取って段々御肥りになるようですね」

「ええ御蔭さまで身体の方はまことに丈夫で御座います」

「そりゃ結構です」

「その代り身上の方はただ痩せる一方で」

 健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見えるところもあった。

「酒でも飲むんじゃなかろうか」

 こんな推察さえ彼の胸を横切った。

 御常の肌身に着けているものは悉とく古びていた。幾度水を潜ったか分らないその着物なり羽織なりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、綺麗に洗張が出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら如何にも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。

「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」

「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」

 健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。

「この人は己を自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」

 近頃の健三は実際健康を損なっていた。それを自覚しつつ彼は医者にも診てもらわなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。しかし身体の未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃした。或時は他が自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。

「年が若くって起居に不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構の宅に住んで下女さえ使っていれば金でもあると考えるように」

 健三は黙って御常の顔を眺めていた。同時に彼は新らしく床の間に飾られた花瓶とその後に懸っている懸額とを眺めた。近いうちに袖を通すべきぴかぴかする反物も彼の心のうちにあった。彼は何故この年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。

「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」

 彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。

 御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の手腕がすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも見当らないらしかった。

「何しろ取高が少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し稼いでくれると好いのですけれども」

 彼女は自分の娘婿を捉まえて愚図だとも無能だともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。あたかも物指で反物の寸法さえ計れば、縞柄だの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。

 生憎健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。