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道草 第九十九章
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夏目漱石
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また二、三日して細君は久しぶりに外出した。
「無沙汰見舞かたがた少し歳暮に廻って来ました」
乳呑児を抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒い頬を赤くして、暖かい空気の裡に尻を落付た。
「御前の宅はどうだい」
「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」
健三は挨拶の仕様もなかった。
「あの紫檀の机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いから止しました」
舞葡萄とかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな唐机は、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金の抵当に取った細君の父は、同じ運命の下に、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。
「縁起はどうでも好いが、そんな高価いものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」
健三は苦笑しながら烟草を吹かした。
「そういえば貴夫、あの人に遣る御金を比田さんから借りなくって」
細君は藪から棒にこんな事をいった。
「比田にそれだけの余裕があるのかい」
「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」
健三はこの新らしい報知を当然とも思った。また異様にも感じた。
「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」
「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当り困るような事はないんですって」
彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしかった。けれども永年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべき金は、一時彼の経済状態を潤おすには充分であった。
「居食をしていても詰らないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」
「へえ、とうとう金貸を遣るようになったのかい」
健三は平生から島田の因業を嗤っていた比田だの姉だのを憶い浮べた。自分たちの境遇が変ると、昨日まで軽蔑していた人の真似をして恬として気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点においてむしろ子供染みていた。
「どうせ高利なんだろう」
細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。
「何でも旨く運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長く遣って行くつもりだって、御姉えさんがそう仰ゃいましたよ」
健三は姉のいう利子の高から胸算用で元金を勘定して見た。
「悪くすると、またみんな損っちまうだけだ。それよりそう慾張ないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」
「だから確な人に貸したいっていうんでしょう」
「確な人はそんな金は借りないさ。怖いからね」
「だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう」
「それじゃ己だって借りるのは厭ださ」
「御兄いさんも困っていらしってよ」
比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄に金を借りてくれと頼んだのだそうである。
「馬鹿だな。金を借りてくれ、借りてくれって、こっちから頼む奴もないじゃないか。兄貴だって金は欲しいだろうが、そんな剣呑な思いまでして借りる必要もあるまいからね」
健三は苦々しいうちにも滑稽を感じた。比田の手前勝手な気性がこの一事でも能く窺われた。それを傍で見て澄ましている姉の料簡も彼には不可思議であった。血が続いていても姉弟という心持は全くしなかった。
「御前己が借りるとでもいったのかい」
「そんな余計な事いやしません」