← 作品

手紙 第四章

title

手紙 第四章

author

夏目漱石

body

 汽車中では重吉の地方生活をいろいろに想像する暇もあったが、目的地へ下りるやいなや、すぐ当用のために忙殺されて、「あのこと」などはほとんど考えもしなかった。ようよう四、五日かかって、一段落がついた時、自分はまた汽車に揺られながら、まだ見ないHの町や、その町の中にある重吉の下宿している旅館などを、頭の奥に漂う画のようにながめた。もとよりものずきのさせるわざだから、煙草の煙に似て、取り留めることのできないうちに、また煙草の煙に似た淡い愉快があった。とかくするうちに汽車はとうとうHへ着いた。

 自分はすぐ俥を雇って、重吉のいる宿屋の玄関へ乗りつけた。番頭にここに佐野という人が下宿しているはずだがと聞くと番頭はおじぎを二つばかりして、佐野さんは先だってまでおいでになりましたが、ついこのあいだお引き移りになりましたと言う。けしからんことだと思いながらも、なお引っ越し先の模様を尋ねてみると、とうてい自分などの行って、一晩でも二晩でもやっかいになれそうな所ではないらしい。いっそここへ泊まるほうが楽だろうと思って、じゃあいたへやへ案内してくれと言うと、番頭はまたおじぎを一つして、まことにお気の毒さまでございますが、招魂祭でどのへやもふさがっておりますのでとていねいに断わった。自分は傘を突いたまましばらく玄関の前に立っていた。正式にいうと、あらかじめ重吉に通知をしたうえ、なおH着の時間を電報で言ってやるべきであるが、なるべくお互いの面倒を省いて簡略に事を済ますのが当世だと思って、わざと前触れなしに重吉を襲ったのであるが、いよいよ来てみると、自分のやり口はただの不注意から、出る不都合な結果を、自分のうえに投げかけたと同じことになってしまった。

 自分はHにどんな宿屋が何軒あるかまるで知らなかったが、この旅館がそのうちでいちばんよいのだということだけは、かねて受け取った重吉の手紙によって心得ていた。なるほど奥をのぞいてみると、廊下が折れ曲がったり、中庭の先に新しい棟が見えたりして、さも広そうでかつ物綺麗であった。自分は番頭にどこか都合ができるだろうと言った。番頭は当惑したような顔をして、しばらく考えていたが、はなはだ見苦しい所で、一夜泊りのお客様にはお気の毒でございますが、佐野さんのいらしったお座敷なら、どうかいたしましょうと答えた。その口ぶりから察すると、なんでもよほどきたない所らしいので、また少し躊躇しかけたが、もとよりこの地へ来て体裁を顧みる必要もない身だから、一晩や二晩はどんなへやで明かしたってかまわないという気になって、このあいだまで重吉のいたというそのへやへ案内してもらった。

 へやは第一の廊下を右へ折れて、そこの縁側から庭下駄をはいて、二足三足たたきの上を渡らなければはいれない代わりにどことも続いていないところが、まるで一軒立ちの観を与えた。天井の低いのや柱の細いのが、さも茶がかった空気を作るとともに、いかにも湿っぽい陰気な感じがした。そうして畳といわず襖といわずはなはだしく古びていた。向こうの藤棚の陰に見える少し出張った新築の中二階などとくらべると、まるで比較にならないほど趣が違っていた。

「こんな所にはいっていたのか」と思いながら、自分は茶をのんでしばらく座敷を見回していたが、やがて硯を借りて、重吉の所へやる手紙を書いた。ただ簡単にK市へ用があって来たついでにここへ寄ったから、すぐ来いというだけにとどめた。それから湯にはいって出ると、もう食事の時間になった。自分はなるべく重吉といっしょに晩飯を食おうと思って、煙草を何本も吹かしながら、彼の来るのを心待ちに待っているうちに、向こうの中二階に電気燈がついて、にぎやかな人声が聞こえだした。自分はとうとう待ち切れず一人膳に向かった。給仕に出た女が、招魂祭でどこの宿屋でもこみ合っているとか、町ではいろいろの催しがあるとか、佐野さんも今晩はきっとどこかへお呼ばれなすったんでしょうとか言うのを聞きながら、ビールを一、二はいのんだ。下女は重吉のことをおとなしいよいかただと言った。女にほれられるかと聞いたら、えへへと笑っていた。道楽をするだろうと聞いたら、下を向いて小さな声をしていいえと答えた。