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それから 十六の六
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夏目漱石
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寐る前に門野が夜中投函から手紙を一本出して来た。代助は暗い中でそれを受取つた儘、別に見様ともしなかつた。門野は、
「御宅からの様です。灯火を持つて来ませうか」と促がす如くに注意した。
代助は始めて洋燈を書斎に入れさして、其下で、状袋の封を切つた。手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであつた。――
「此間から奥さんの事で貴方も嘸御迷惑なすつたらう。此方でも御父様始め兄さんや、私は随分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達て御出の時、とう/\御父さんに断然御断りなすつた御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないと諦らめてゐます。けれども其節御父様は、もう御前の事は構はないから、其積でゐろと御怒りなされた由、後で承りました。其後あなたが御出にならないのも、全く其為ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを上げる日には何うかとも思ひましたが、矢張り御出にならないので、心配してゐます。御父さんは打遣つて置けと仰います。兄さんは例の通り呑気で、困つたら其内来るだらう。其時親爺によく詫らせるが可い。もし来ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい。尤も御父さんは未だ怒つて御出の様子です。私の考では当分昔の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、貴方が入らつしやらない方が却つて貴方の為に宜いかも知れません。たゞ心配になるのは月々上げる御金の事です。貴方の事だから、さう急に自分で御金を取る気遣はなからうと思ふと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒で堪りません。で、私の取計で例月分を送つて上げるから、御受取の上は是で来月迄持ち応へて入らつしやい。其内には御父さんの御機嫌も直るでせう。又兄さんからも、さう云つて頂く積です。私も好い折があれば、御詫をして上げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が宜う御座います。……」
まだ後が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は中に這入つてゐた小切手を引き抜いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて嫂に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた。
代助は洋燈の前にある封筒を、猶つくづくと眺めた。古い寿命が又一ヶ月延びた。晩かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂の志は難有いにもせよ、却つて毒になる許であつた。たゞ平岡と事を決する前は、麺麭の為に働らく事を肯はぬ心を持つてゐたから、嫂の贈物が、此際糧食としてことに彼には貴とかつた。
其晩も蚊帳へ這入る前にふつと、洋燈を消した。雨戸は門野が立てに来たから、故障も云はずに、其儘にして置いた。硝子戸だから、戸越しにも空は見えた。たゞ昨夕より暗かつた。曇つたのかと思つて、わざ/\椽側迄出て、透かす様にして軒を仰ぐと、光るものが筋を引いて斜めに空を流れた。代助は又蚊帳を捲つて這入つた。寐付かれないので団扇をはたはた云はせた。
家の事は左のみ気に掛からなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病気と、其源因と其結果が、ひどく代助の頭を悩ました。それから平岡との会見の様子も、様々に想像して見た。それも一方ならず彼の脳髄を刺激した。平岡は明日の朝九時頃あんまり暑くならないうちに来るといふ伝言であつた。代助は固より、平岡に向つて何う切り出さう抔と形式的の文句を考へる男ではなかつた。話す事は始めから極つてゐて、話す順序は其時の模様次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する様にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安静を切に冀つた。成るべく熟睡したいと心掛けて瞼を合せたが、生憎眼が冴えて昨夕よりは却つて寐苦しかつた。其内夏の夜がぽうと白み渡つて来た。代助は堪りかねて跳ね起きた。跣足で庭先へ飛び下りて冷たい露を存分に踏んだ。夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の出を待つてゐるうちに、うと/\した。