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それから 十六の八
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夏目漱石
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平岡の話は先刻から深い感動を代助に与へてゐたが、突然此思はざる問に来た時、代助はぐつと詰つた。平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の胸に応へた。彼は何時になく少し赤面して俯向いた。然し再顔を上げた時は、平生の通り静かな悪びれない態度を回復してゐた。
「三千代さんの君に詫まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだらう。或は同じ事かも知れない。僕は何うしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思ふから話すんだから、今日迄の友誼に免じて、快よく僕に僕の義務を果さして呉れ給へ」
「何だい。改たまつて」と平岡は始めて眉を正した。
「いや前置をすると言訳らしくなつて不可ないから、僕も成る可くなら卒直に云つて仕舞ひたいのだが、少し重大な事件だし、夫に習慣に反した嫌もあるので、若し中途で君に激されて仕舞ふと、甚だ困るから、是非仕舞迄君に聞いて貰ひたいと思つて」
「まあ何だい。其話と云ふのは」
好奇心と共に平岡の顔が益真面目になつた。
「其代り、みんな話した後で、僕は何んな事を君から云はれても、矢張り大人しく仕舞迄聞く積だ」
平岡は何にも云はなかつた。たゞ眼鏡の奥から大きな眼を代助の上に据ゑた。外はぎら/\する日が照り付けて、椽側迄射返したが、二人は殆んど暑さを度外に置いた。
代助は一段声を潜めた。さうして、平岡夫婦が東京へ来てから以来、自分と三千代との関係が何んな変化を受けて、今日に至つたかを、詳しく語り出した。平岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。代助は凡てを語るに約一時間余を費やした。其間に平岡から四遍程極めて単簡な質問を受けた。
「ざつと斯う云ふ経過だ」と説明の結末を付けた時、平岡はたゞ唸る様に深い溜息を以て代助に答へた。代助は非常に酷かつた。
「君の立場から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。怪しからん友達だと思ふだらう。左様思れても一言もない。済まない事になつた」
「すると君は自分のした事を悪いと思つてるんだね」
「無論」
「悪いと思ひながら今日迄歩を進めて来たんだね」と平岡は重ねて聞いた。語気は前よりも稍切迫してゐた。
「左様だ。だから、此事に対して、君の僕等に与へやうとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。今のはたゞ事実を其儘に話した丈で、君の処分の材料にする考だ」
平岡は答へなかつた。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云つた。
「僕の毀損された名誉が、回復出来る様な手段が、世の中にあり得ると、君は思つてゐるのか」
今度は代助の方が答へなかつた。
「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」と平岡は又云つた。
「すると君は当事者丈のうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「左様さ」
「三千代さんの心機を一転して、君を元よりも倍以上に愛させる様にして、其上僕を蛇蝎の様に悪ませさへすれば幾分か償にはなる」
「夫が君の手際で出来るかい」
「出来ない」と代助は云ひ切つた。
「すると君は悪いと思つた事を今日迄発展さして置いて、猶其悪いと思ふ方針によつて、極端押して行かうとするのぢやないか」
「矛盾かも知れない。然し夫は世間の掟と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君に詫まる。然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ」