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それから 十七の三

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それから 十七の三

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夏目漱石

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「姉さんは泣いてゐるぜ」と兄が云つた。

「さうですか」と代助は夢の様に答へた。

「御父さんは怒つてゐる」

 代助は答をしなかつた。たゞ遠い所を見る眼をして、兄を眺めてゐた。

「御前は平生から能く分らない男だつた。夫でも、いつか分る時機が来るだらうと思つて今日迄交際つてゐた。然し今度と云ふ今度は、全く分らない人間だと、おれも諦らめて仕舞つた。世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫が自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思つて見ろ。御前だつて家族の名誉と云ふ観念は有つてゐるだらう」

 兄の言葉は、代助の耳を掠めて外へ零れた。彼はたゞ全身に苦痛を感じた。けれども兄の前に良心の鞭撻を蒙る程動揺してはゐなかつた。凡てを都合よく弁解して、世間的の兄から、今更同情を得やうと云ふ芝居気は固より起らなかつた。彼は彼の頭の中に、彼自身に正当な道を歩んだといふ自信があつた。彼は夫で満足であつた。その満足を理解して呉れるものは三千代丈であつた。三千代以外には、父も兄も社会も人間も悉く敵であつた。彼等は赫々たる炎火の裡に、二人を包んで焼き殺さうとしてゐる。代助は無言の儘、三千代と抱き合つて、此焔の風に早く己れを焼き尽すのを、此上もない本望とした。彼は兄には何の答もしなかつた。重い頭を支へて石の様に動かなかつた。

「代助」と兄が呼んだ。「今日はおれは御父さんの使に来たのだ。御前は此間から家へ寄り付かない様になつてゐる。平生なら御父さんが呼び付けて聞き糺す所だけれども、今日は顔を見るのが厭だから、此方から行つて実否を確めて来いと云ふ訳で来たのだ。それで――もし本人に弁解があるなら弁解を聞くし。又弁解も何もない、平岡の云ふ所が一々根拠のある事実なら、――御父さんは斯う云はれるのだ。――もう生涯代助には逢はない。何処へ行つて、何をしやうと当人の勝手だ。其代り、以来子としても取り扱はない。又親とも思つて呉れるな。――尤もの事だ。そこで今御前の話を聞いて見ると、平岡の手紙には嘘は一つも書いてないんだから仕方がない。其上御前は、此事に就て後悔もしなければ、謝罪もしない様に見受けられる。それぢや、おれだつて、帰つて御父さんに取り成し様がない。御父さんから云はれた通りを其儘御前に伝へて帰る丈の事だ。好いか。御父さんの云はれる事は分つたか」

「よく分りました」と代助は簡明に答へた。

「貴様は馬鹿だ」と兄が大きな声を出した。代助は俯向いた儘顔を上げなかつた。

「愚図だ」と兄が又云つた。「不断は人並以上に減らず口を敲く癖に、いざと云ふ場合には、丸で唖の様に黙つてゐる。さうして、陰で親の名誉に関はる様な悪戯をしてゐる。今日迄何の為に教育を受けたのだ」

 兄は洋卓の上の手紙を取つて自分で巻き始めた。静かな部屋の中に、半切の音がかさ/\鳴つた。兄はそれを元の如くに封筒に納めて懐中した。

「ぢや帰るよ」と今度は普通の調子で云つた。代助は叮嚀に挨拶をした。兄は、

「おれも、もう逢はんから」と云ひ捨てて玄関に出た。

 兄の去つた後、代助はしばらくして元の儘じつと動かずにゐた。門野が茶器を取り片付けに来た時、急に立ち上がつて、

「門野さん。僕は一寸職業を探して来る」と云ふや否や、鳥打帽を被つて、傘も指さずに日盛りの表へ飛び出した。

 代助は暑い中を馳けない許に、急ぎ足に歩いた。日は代助の頭の上から真直に射下した。乾いた埃が、火の粉の様に彼の素足を包んだ。彼はぢり/\と焦る心持がした。

「焦る/\」と歩きながら口の内で云つた。

 飯田橋へ来て電車に乗つた。電車は真直に走り出した。代助は車のなかで、

「あゝ動く。世の中が動く」と傍の人に聞える様に云つた。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従つて火の様に焙つて来た。是で半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだらうと思つた。

 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くる/\と回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあつた。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くる/\と渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売つてるものがあつた。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸て来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、又代助の頭の中に吸ひ込まれた。烟草屋の暖簾が赤かつた。売出しの旗も赤かつた。電柱が赤かつた。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になつた。さうして、代助の頭を中心としてくるり/\と焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗つて行かうと決心した。