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それから 六の八
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夏目漱石
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代助は盃へ唇を付けながら、是から先はもう云ふ必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考へ直させる為の弁論でもなし、又平岡から意見されに来た訪問でもない。二人はいつ迄立つても、二人として離れてゐなければならない運命を有つてゐるんだと、始めから心付てゐるから、議論は能い加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持つて来やうと試みた。
けれども、平岡は酔ふとしつこくなる男であつた。胸毛の奥迄赤くなつた胸を突き出して、斯う云つた。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕見た様に局部に当つて、現実と悪闘してゐるものは、そんな事を考へる余地がない。日本が貧弱だつて、弱虫だつて、働らいてるうちは、忘れてゐるからね。世の中が堕落したつて、世の中の堕落に気が付かないで、其中に活動するんだからね。君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それは此社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、さうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だつて忘れてゐるぢやないか」
平岡は舌つてるうち、自然と此比喩に打つかつて、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所で得意に一段落をつけた。代助は仕方なしに薄笑ひをした。すると平岡はすぐ後を附加へた。
「君は金に不自由しないから不可ない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちやんだから、品の好い様なこと許かり云つてゐて、――」
代助は少々平岡が小憎しくなつたので、突然中途で相手を遮ぎつた。
「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働でなくつちや名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れてゐる」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺つた。さうして、
「何故」と聞いた。
「何故つて、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題見た様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云つてくれ」
「つまり食ふ為めの職業は、誠実にや出来悪いと云ふ意味さ」
「僕の考へとは丸で反対だね。食ふ為めだから、猛烈に働らく気になるんだらう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食ふ為の働らきと云ふと、つまり食ふのと、働らくのと何方が目的だと思ふ」
「無論食ふ方さ」
「夫れ見給へ。食ふ方が目的で働らく方が方便なら、食ひ易い様に、働らき方を合せて行くのが当然だらう。さうすりや、何を働らいたつて、又どう働らいたつて、構はない、只麺麭が得られゝば好いと云ふ事に帰着して仕舞ふぢやないか。労力の内容も方向も乃至順序も悉く他から掣肘される以上は、其労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、何うも。夫で一向差支ないぢやないか」
「では極上品な例で説明してやらう。古臭い話だが、ある本で斯んな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱へた所が、始めて、其料理人の拵へたものを食つて見ると頗る不味かつたんで、大変小言を云つたさうだ。料理人の方では最上の料理を食はして、叱られたものだから、其次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがつて、始終褒められたさうだ。此料理人を見給へ。生活の為に働らく事は抜目のない男だらうが、自分の技芸たる料理其物のために働らく点から云へば、頗る不誠実ぢやないか、堕落料理人ぢやないか」
「だつて左様しなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働らきでなくつちや、真面目な仕事は出来るものぢやないんだよ」
「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻つちまつた。是だから議論は不可ないよ」と云つて、代助は頭を掻いた。議論はそれで、とう/\御仕舞になつた。