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それから 七の三

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それから 七の三

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夏目漱石

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 けれども、平岡へ行つた所で、三千代が無暗に洗ひ浚い舌り散らす女ではなし、よしんば何うして、そんな金が要る様になつたかの事情を、詳しく聞き得たにした所で、夫婦の腹の中なんぞは容易に探られる訳のものではない。――代助の心の底を能く見詰めてゐると、彼の本当に知りたい点は、却つて此所に在ると、自から承認しなければならなくなる。だから正直を云ふと、何故に金が入用であるかを研究する必要は、もう既に通り越してゐたのである。実は外面の事情は聞いても聞かなくつても、三千代に金を貸して満足させたい方であつた。けれども三千代の歓心を買ふ目的を以て、其手段として金を拵へる気は丸でなかつた。代助は三千代に対して、それ程政略的な料簡を起す余裕を有つてゐなかつたのである。

 其上平岡の留守へ行き中てゝ、今日迄の事情を、特に経済の点に関して丈でも、充分聞き出すのは困難である。平岡が家にゐる以上は、詳しい話の出来ないのは知れ切つてゐる。出来ても、それを一から十迄真に受ける訳には行かない。平岡は世間的な色々の動機から、代助に見栄を張つてゐる。見栄の入らない所でも一種の考から沈黙を守つてゐる。

 代助は、兎も角もまづ嫂に相談して見やうと決心した。さうして、自分ながら甚だ覚束ないとは思つた。今迄嫂にちび/\、無心を吹き掛けた事は何度もあるが、斯う短兵急に痛め付けるのは始めてゞである。然し梅子は自分の自由になる資産をいくらか持つてゐるから、或は出来ないとも限らない。夫で駄目なら、又高利でも借りるのだが、代助はまだ其所迄には気が進んでゐなかつた。たゞ早晩平岡から表向きに、連帯責任を強ひられて、それを断わり切れない位なら、一層此方から進んで、直接に三千代を喜ばしてやる方が遥かに愉快だといふ取捨の念丈は殆んど理窟を離れて、頭の中に潜んでゐた。

 生暖かい風の吹く日であつた。曇つた天気が何時迄も無精に空に引掛つて、中々暮れさうにない四時過から家を出て、兄の宅迄電車で行つた。青山御所の少し手前迄来ると、電車の左側を父と兄が綱曳で急がして通つた。挨拶をする暇もないうちに擦れ違つたから、向ふは元より気が付かずに過ぎ去つた。代助は次の停留所で下りた。

 兄の家の門を這入ると、客間でピアノの音がした。代助は一寸砂利の上に立ち留つたが、すぐ左へ切れて勝手口の方へ廻つた。其所には格子の外に、ヘクターと云ふ英国産の大きな犬が、大きな口を革紐で縛られて臥てゐた。代助の足音を聞くや否や、ヘクターは毛の長い耳を振つて、斑な顔を急に上げた。さうして尾を揺かした。

 入口の書生部屋を覗き込んで、敷居の上に立ちながら、二言三言愛嬌を云つた後、すぐ西洋間の方へ来て、戸を明けると、嫂がピヤノの前に腰を掛けて両手を動かして居た。其傍に縫子が袖の長い着物を着て、例の髪を肩迄掛けて立つてゐた。代助は縫子の髪を見るたんびに、ブランコに乗つた縫子の姿を思ひ出す。黒い髪と、淡紅色のリボンと、それから黄色い縮緬の帯が、一時に風に吹かれて空に流れる様を、鮮かに頭の中に刻み込んでゐる。

 母子は同時に振り向いた。

「おや」

 縫子の方は、黙つて馳けて来た。さうして、代助の手をぐい/\引張つた。代助はピヤノの傍迄来た。

「如何なる名人が鳴らしてゐるのかと思つた」

 梅子は何にも云はずに、額に八の字を寄せて、笑ひながら手を振り振り、代助の言葉を遮ぎつた。さうして、向ふから斯う云つた。

「代さん、此所ん所を一寸遣つて見せて下さい」

 代助は黙つて嫂と入れ替つた。譜を見ながら、両方の指をしばらく奇麗に働かした後、

「斯うだらう」と云つて、すぐ席を離れた。