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それから 七の四

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それから 七の四

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夏目漱石

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 それから三十分程の間、母子して交る/″\楽器の前に坐つては、一つ所を復習してゐたが、やがて梅子が、

「もう廃しませう。彼方へ行つて、御飯でも食ませう。叔父さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗くなつてゐた。代助は先刻から、ピヤノの音を聞いて、嫂や姪の白い手の動く様子を見て、さうして時々は例の欄間の画を眺めて、三千代の事も、金を借りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出る時、振り返つたら、紺青の波が摧けて、白く吹き返す所丈が、暗い中に判然見えた。代助は此大濤の上に黄金色の雲の峰を一面に描かした。さうして、其雲の峰をよく見ると、真裸な女性の巨人が、髪を乱し、身を躍らして、一団となつて、暴れ狂つてゐる様に、旨く輪廓を取らした。代助はルキイルを雲に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此雲の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付かない、偉な塊を脳中に髣髴して、ひそかに嬉しがつてゐた。が偖出来上つて、壁の中へ嵌め込んでみると、想像したよりは不味かつた。梅子と共に部屋を出た時は、此ルキイルは殆んど見えなかつた。紺青の波は固より見えなかつた。たゞ白い泡の大きな塊が薄白く見えた。

 居間にはもう電燈が点いてゐた。代助は其所で、梅子と共に晩食を済ました。子供二人も卓を共にした。誠太郎に兄の部室からマニラを一本取つて来さして、夫を吹かしながら、雑談をした。やがて、小供は明日の下読をする時間だと云ふので、母から注意を受けて、自分の部屋へ引き取つたので、後は差し向になつた。

 代助は突然例の話を持ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ/\進行を始めた。先づ父と兄が綱曳で車を急がして何所へ行つたのだとか、此間は兄さんに御馳走になつたとか、あなたは何故麻布の園遊会へ来なかつたのだとか、御父さんの漢詩は大抵法螺だとか、色々聞いたり答へたりして居るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは外でもない。父と兄が、近来目に立つ様に、忙しさうに奔走し始めて、此四五日は碌々寐るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が始つたんですと、代助は平気な顔で聞いて見た。すると、嫂も普通の調子で、さうですね、何か始つたんでせう。御父さんも、兄さんも私には何にも仰しやらないから、知らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか此間の御嫁さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて来た。

 今夜も遅くなる、もし、誰と誰が来たら何とか屋へ来る様に云つて呉れと云ふ電話を伝へた儘、書生は再び出て行つた。代助は又結婚問題に話が戻ると面倒だから、時に姉さん、些御願があつて来たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。

 梅子は代助の云ふ事を素直に聞いて居た。代助は凡てを話すに約十分許を費やした。最後に、

「だから思ひ切つて貸して下さい」と云つた。すると梅子は真面目な顔をして、

「さうね。けれども全体何時返す気なの」と思ひも寄らぬ事を問ひ返した。代助は顎の先を指で撮んだ儘、じつと嫂の気色を窺つた。梅子は益真面目な顔をして、又斯う云つた。

「皮肉ぢやないのよ。怒つちや不可ませんよ」

 代助は無論怒つてはゐなかつた。たゞ姉弟から斯ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更返す気だの、貰う積りだのと布衍すればする程馬鹿になる許だから、甘んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、後が大変云ひ易かつた。――