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それから 八の六
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夏目漱石
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平岡の帰りを玄関迄見送つた時、代助はしばらく、障子に身を寄せて、敷居の上に立つてゐた。門野も御附合に平岡の後姿を眺めてゐた。が、すぐ口を出した。
「平岡さんは思つたよりハイカラですな。あの服装ぢや、少し宅の方が御粗末過る様です」
「左様でもないさ。近頃はみんな、あんなものだらう」と代助は立ちながら答へた。
「全たく、服装丈ぢや分らない世の中になりましたからね。何処の紳士かと思ふと、どうも変ちきりんな家へ這入てますからね」と門野はすぐあとを付けた。
代助は返事も為ずに書斎へ引き返した。椽側に垂れた君子蘭の緑の滴がどろ/\になつて、干上り掛つてゐた。代助はわざと、書斎と座敷の仕切を立て切つて、一人室のうちへ這入つた。来客に接した後しばらくは、独坐に耽るが代助の癖であつた。ことに今日の様に調子の狂ふ時は、格別その必要を感じた。
平岡はとう/\自分と離れて仕舞つた。逢ふたんびに、遠くにゐて応対する様な気がする。実を云ふと、平岡ばかりではない。誰に逢つても左んな気がする。現代の社会は孤立した人間の集合体に過なかつた。大地は自然に続いてゐるけれども、其上に家を建てたら、忽ち切れ/\になつて仕舞つた。家の中にゐる人間も亦切れ切れになつて仕舞つた。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
代助と接近してゐた時分の平岡は、人に泣いて貰ふ事を喜こぶ人であつた。今でも左様かも知れない。が、些ともそんな顔をしないから、解らない。否、力めて、人の同情を斥ける様に振舞つてゐる。孤立しても世は渡つて見せるといふ我慢か、又は是が現代社会に本来の面目だと云ふ悟りか、何方かに帰着する。
平岡に接近してゐた時分の代助は、人の為に泣く事の好きな男であつた。それが次第々々に泣けなくなつた。泣かない方が現代的だからと云ふのではなかつた。事実は寧ろ之を逆にして、泣かないから現代的だと言ひたかつた。泰西の文明の圧迫を受けて、其重荷の下に唸る、劇烈な生存競争場裏に立つ人で、真によく人の為に泣き得るものに、代助は未だ曾て出逢はなかつた。
代助は今の平岡に対して、隔離の感よりも寧ろ嫌悪の念を催ふした。さうして向ふにも自己同様の念が萌してゐると判じた。昔しの代助も、時々わが胸のうちに、斯う云ふ影を認めて驚ろいた事があつた。其時は非常に悲しかつた。今は其悲しみも殆んど薄く剥がれて仕舞つた。だから自分で黒い影を凝と見詰めて見る。さうして、これが真だと思ふ。已を得ないと思ふ。たゞそれ丈になつた。
斯う云ふ意味の孤独の底に陥つて煩悶するには、代助の頭はあまりに判然し過てゐた。彼はこの境遇を以て、現代人の踏むべき必然の運命と考へたからである。従つて、自分と平岡の隔離は、今の自分の眼に訴へて見て、尋常一般の径路を、ある点迄進行した結果に過ないと見傚した。けれども、同時に、両人の間に横たはる一種の特別な事情の為、此隔離が世間並よりも早く到着したと云ふ事を自覚せずにはゐられなかつた。それは三千代の結婚であつた。三千代を平岡に周旋したものは元来が自分であつた。それを当時に悔る様な薄弱な頭脳ではなかつた。今日に至つて振り返つて見ても、自分の所作は、過去を照らす鮮かな名誉であつた。けれども三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人の前に突き付けた。彼等は自己の満足と光輝を棄てゝ、其前に頭を下げなければならなかつた。さうして平岡は、ちらり/\と何故三千代を貰つたかと思ふ様になつた。代助は何処かしらで、何故三千代を周旋したかと云ふ声を聞いた。
代助は書斎に閉ぢ籠つて一日考へに沈んでゐた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些と御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙ですぜ。演芸館で支那人の留学生が芝居を演つてます。どんな事を演る積ですか、行つて御覧なすつたら何うです。支那人てえ奴は、臆面がないから、何でも遣る気だから呑気なもんだ。……」と一人で喋舌つた。