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それから 九の二
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夏目漱石
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今日はわざ/\其為に来たのだから、否でも応でも父に逢はなければならない。相変らず、内玄関の方から廻つて座敷へ来ると、珍らしく兄の誠吾が胡坐をかいて、酒を呑んでゐた。梅子も傍に坐つてゐた。兄は代助を見て、
「何うだ、一盃遣らないか」と、前にあつた葡萄酒の壜を持つて振つて見せた。中にはまだ余程這入つてゐた。梅子は手を敲いて洋盞を取り寄せた。
「当てゝ御覧なさい。どの位古いんだか」と一杯注いだ。
「代助に分るものか」と云つて、誠吾は弟の唇のあたりを眺めてゐた。代助は一口飲んで盃を下へ下した。肴の代りに薄いウエーファーが菓子皿にあつた。
「旨いですね」と云つた。
「だから時代を当てゝ御覧なさいよ」
「時代があるんですか。偉いものを買ひ込んだもんだね。帰りに一本貰つて行かう」
「御生憎様、もう是限なの。到来物よ」と云つて梅子は椽側へ出て、膝の上に落ちたウエーフアーの粉を払いた。
「兄さん、今日は何うしたんです。大変気楽さうですね」と代助が聞いた。
「今日は休養だ。此間中は何うも忙し過て降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻を口に啣えた。代助は自分の傍にあつた燐寸を擦つて遣つた。
「代さん貴方こそ気楽ぢやありませんか」と云ひながら梅子が椽側から帰つて来た。
「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行つて御覧なさい。面白いから」
「貴方もう行つたの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」
「怠けものは可くない。勉強の方向が違ふんだから」
「押の強い事ばかり云つて。人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤い瞼をして、ぽかんと葉巻の烟を吹いてゐた。
「ねえ、貴方」と梅子が催促した。誠吾はうるささうに葉巻を指の股へ移して、
「今のうち沢山勉強して貰つて置いて、今に此方が貧乏したら、救つて貰ふ方が好いぢやないか」と云つた。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた。代助は何にも云はずに、洋盞を姉の前に出した。梅子も黙つて葡萄酒の壜を取り上げた。
「兄さん、此間中は何だか大変忙しかつたんだつてね」と代助は前へ戻つて聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云ひながら、誠吾は寐転んで仕舞つた。
「何か日糖事件に関係でもあつたんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙しかつた」
兄の答は何時でも此程度以上に明瞭になつた事がない。実は明瞭に話したくないんだらうけれども、代助の耳には、夫が本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも楽に其返事の中に這入てゐた。
「日糖も詰らない事になつたが、あゝなる前に何うか方法はないもんでせうかね」
「左うさなあ。実際世の中の事は、何が何うなるんだか分らないからな。――梅、今日は直木に云ひ付けて、ヘクターを少し運動させなくつちや不可いよ。あゝ大食をして寐て許ゐちや毒だ」と誠吾は眠さうな瞼を指でしきりに擦つた。代助は、
「愈奥へ行つて御父さんに叱られて来るかな」と云ひながら又洋盞を嫂の前へ出した。梅子は笑つて酒を注いだ。
「嫁の事か」と誠吾が聞いた。
「まあ、左うだらうと思ふんです」
「貰つて置くがいゝ。さう老人に心配さしたつて仕様があるものか」と云つたが、今度はもつと判然した語勢で、
「気を付けないと不可よ。少し低気圧が来てゐるから」と注意した。代助は立ち掛けながら、
「まさか此間中の奔走からきた低気圧ぢやありますまいね」と念を押した。兄は寐転んだ儘、
「何とも云へないよ。斯う見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時拘引されるか分らない身体なんだから」と云つた。
「馬鹿な事を仰しやるなよ」と梅子が窘めた。
「矢っ張り僕ののらくらが持ち来たした低気圧なんだらう」と代助は笑ひながら立つた。