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それから 九の三
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夏目漱石
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廊下伝ひに中庭を越して、奥へ来て見ると、父は唐机の前へ坐つて、唐本を見てゐた。父は詩が好で、閑があると折々支那人の詩集を読んでゐる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引になる事があつた。さう云ふときは、いかに神経のふつくら出来上つた兄でも、成るべく近寄らない事にしてゐた。是非顔を合せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方か引張て父の前へ出る手段を取つてゐた。代助も椽側迄来て、そこに気が付いたが、夫程の必要もあるまいと思つて、座敷を一つ通り越して、父の居間に這入つた。
父はまづ眼鏡を外した。それを読み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直つた。さうして、たゞ一言、
「来たか」と云つた。其語調は平常よりも却つて穏な位であつた。代助は膝の上に手を置きながら、兄が真面目な顔をして、自分を担いたんぢやなからうかと考へた。代助はそこで又苦い茶を飲ませられて、しばらく雑談に時を移した。今年は芍薬の出が早いとか、茶摘歌を聞いてゐると眠くなる時候だとか、何所とかに、大きな藤があつて、其花の長さが四尺足らずあるとか、話は好加減な方角へ大分長く延びて行つた。代助は又其方が勝手なので、いつ迄も延ばす様にと、後から後を付けて行つた。父も仕舞には持て余して、とう/\、時に今日御前を呼んだのはと云ひ出した。
代助はそれから後は、一言も口を利かなくなつた。只謹んで親爺の云ふことを聴いてゐた。父も代助から斯う云ふ態度に出られると、長い間自分一人で、講義でもする様に、述べて行かなくてはならなかつた。然し其半分以上は、過去を繰り返す丈であつた。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払つて聞いてゐた。
父の長談義のうちに、代助は二三の新しい点も認めた。その一つは、御前は一体是からさき何うする料簡なんだと云ふ真面目な質問であつた。代助は今迄父からの注文ばかり受けてゐた。だから、其注文を曖昧に外す事に慣れてゐた。けれども、斯う云ふ大質問になると、さう口から出任せに答へられない。無暗な事を云へば、すぐ父を怒らして仕舞ふからである。と云つて正直を自白すると、二三年間父の頭を教育した上でなくつては、通じない理窟になる。何故と云ふと、代助は今此大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破る丈の考も何も有つてゐなかつたからである。彼はそれが自分に取つては尤もな所だと思つてゐた。から、父が、其通りを聞いて、成程と納得する迄には、大変な時間がかゝる。或は生涯通じつこないかも知れない。父の気に入る様にするのは、何でも、国家の為とか、天下の為とか、景気の好い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述べて置けば済むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になつても、是ばかりは馬鹿気てゐて、口へ出す勇気がなかつた。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いづれ秩序立てゝ来て、御相談をする積であると答へた。答へた後で、実に滑稽だと思つたが仕方がなかつた。
代助は次に、独立の出来る丈の財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答へた。すると、父が、では佐川の娘を貰つたら好からうと云ふ条件を付けた。其財産は佐川の娘が持つて来るのか、又は父が呉れるのか甚だ曖昧であつた。代助は少し其点に向つて進んで見たが、遂に要領を得なかつた。けれども、それを突き留める必要がないと考へて已めた。
次に、一層洋行する気はないかと云はれた。代助は好いでせうと云つて賛成した。けれども、これにも、矢っ張り結婚が先決問題として出て来た。
「そんなに佐川の娘を貰ふ必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなつた。