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それから 九の四

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それから 九の四

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夏目漱石

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 代助は父を怒らせる気は少しもなかつたのである。彼の近頃の主義として、人と喧嘩をするのは、人間の堕落の一範鋳になつてゐた。喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒つた人の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかと云ふ点に於て、大切なわが生命を傷ける打撃に外ならぬと心得てゐた。彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有つてゐた。けれども、それが為に、自然の儘に振舞ひさへすれば、罰を免かれ得るとは信じてゐなかつた。人を斬つたものゝ受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じてゐた。迸しる血の色を見て、清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助は夫程神経の鋭どい男であつた。だから顔の色を赤くした父を見た時、妙に不快になつた。けれども此罪を二重に償ふために、父の云ふ通りにしやうと云ふ気は些とも起らなかつた。彼は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払ふ男であつたからである。

 其時父は頗る熱した語気で、先づ自分の年を取つてゐる事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁を持たせるのは親の義務であると云ふ事、嫁の資格其他に就ては、本人よりも親の方が遥かに周到な注意を払つてゐると云ふ事、他の親切は、其当時にこそ余計な御世話に見えるが、後になると、もう一遍うるさく干渉して貰ひたい時機が来るものであるといふ事を、非常に叮嚀に説いた。代助は慎重な態度で、聴いてゐた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾の意を表さなかつた。すると父はわざと抑えた調子で、

「ぢや、佐川は已めるさ。さうして誰でも御前の好なのを貰つたら好いだらう。誰か貰ひたいのがあるのか」と云つた。是は嫂の質問と同様であるが、代助は梅子に対する様に、たゞ苦笑ばかりしてはゐられなかつた。

「別にそんな貰ひたいのもありません」と明らかな返事をした。すると父は急に肝の発した様な声で、

「ぢや、少しは此方の事も考へて呉れたら好からう。何もさう自分の事ばかり思つてゐないでも」と急調子に云つた。代助は、突然父が代助を離れて、彼自身の利害に飛び移つたのに驚ろかされた。けれども其驚ろきは、論理なき急劇の変化の上に注がれた丈であつた。

「貴方にそれ程御都合が好い事があるなら、もう一遍考へて見ませう」と答へた。

 父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対してゐる時、何うしても論理を離れる事の出来ない場合がある。夫が為め、よく人から、相手を遣り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云ふと、彼程人を遣り込める事の嫌な男はないのである。

「何も己の都合許で、嫁を貰へと云つてやしない」と父は前の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云ふなら、参考の為、云つて聞かせるが、御前はもう三十だらう、三十になつて、普通のものが結婚をしなければ、世間では何と思ふか大抵分るだらう。そりや今は昔と違ふから、独身も本人の随意だけれども、独身の為に親や兄弟が迷惑したり、果は自分の名誉に関係する様な事が出来したりしたら何うする気だ」

 代助はたゞ茫然として父の顔を見てゐた。父は何の点に向つて、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分らなかつたからである。しばらくして、

「そりや私のことだから少しは道楽もしますが……」と云ひかけた。父はすぐ夫を遮ぎつた。

「そんな事ぢやない」

 二人は夫限りしばらく口を利かずにゐた。父は此沈黙を以て代助に向つて与へた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和らげて、

「まあ、よく考へて御覧」と云つた。代助ははあと答へて、父の室を退ぞいた。座敷へ来て兄を探したが見えなかつた。嫂はと尋ねたら、客間だと下女が教へたので、行つて戸を明けて見ると、縫子のピヤノの先生が来てゐた。代助は先生に一寸挨拶をして、梅子を戸口迄呼び出した。

「あなたは僕の事を何か御父さんに讒訴しやしないか」

 梅子はハヽヽヽと笑つた。さうして、

「まあ御這入んなさいよ。丁度好い所だから」と云つて、代助を楽器の傍迄引張つて行つた。