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それから 十の三

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それから 十の三

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夏目漱石

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 斯んな風に、代助は空虚なるわが心の一角を抱いて今日に至つた。いま先方門野を呼んで括り枕を取り寄せて、午寐を貪ぼつた時は、あまりに溌溂たる宇宙の刺激に堪えなくなつた頭を、出来るならば、蒼い色の付いた、深い水の中に沈めたい位に思つた。それ程彼は命を鋭く感じ過ぎた。従つて熱い頭を枕へ着けた時は、平岡も三千代も、彼に取つて殆んど存在してゐなかつた。彼は幸にして涼しい心持に寐た。けれども其穏やかな眠のうちに、誰かすうと来て、又すうと出て行つた様な心持がした。眼を醒まして起き上がつても其感じがまだ残つてゐて、頭から拭ひ去る事が出来なかつた。それで門野を呼んで、寐てゐる間に誰か来はしないかと聞いたのである。

 代助は両手を額に当てゝ、高い空を面白さうに切つて廻る燕の運動を椽側から眺めてゐたが、やがて、それが眼ま苦しくなつたので、室の中に這入つた。けれども、三千代が又訪ねて来ると云ふ目前の予期が、既に気分の平調を冒してゐるので、思索も読書も殆んど手に着かなかつた。代助は仕舞に本棚の中から、大きな画帖を出して来て、膝の上に広げて、繰り始めた。けれども、それも、只指の先で順々に開けて行く丈であつた。一つ画を半分とは味はつてゐられなかつた。やがてブランギンの所へ来た。代助は平生から此装飾画家に多大の趣味を有つてゐた。彼の眼は常の如く輝を帯びて、一度は其上に落ちた。それは何処かの港の図であつた。背景に船と檣と帆を大きく描いて、其余つた所に、際立つて花やかな空の雲と、蒼黒い水の色をあらはした前に、裸体の労働者が四五人ゐた。代助は是等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩から脊へかけて、肉塊と肉塊が落ち合つて、其間に渦の様な谷を作つてゐる模様を見て、其所にしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、画帖を開けた儘、眼を放して耳を立てた。すると勝手の方で婆さんの声がした。それから牛乳配達が空壜を鳴らして急ぎ足に出て行つた。宅のうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善く応へた。

 代助はぼんやり壁を見詰めてゐた。門野をもう一返呼んで、三千代が又くる時間を、云ひ置いて行つたか何うか尋ねやうと思つたが、あまり愚だから憚かつた。それ許ではない、人の細君が訪ねて来るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考へた。又それ程待ち受ける位なら、此方から何時でも行つて話をすべきであると考へた。此矛盾の両面を双対に見た時、代助は急に自己の没論理に恥ぢざるを得なかつた。彼の腰は半ば椅子を離れた。けれども彼はこの没論理の根底に横はる色々の因数を自分で善く承知してゐた。さうして、今の自分に取つては、この没論理の状態が、唯一の事実であるから仕方ないと思つた。且、此事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題を繋ぎ合はして出来上つた、自己の本体を蔑視する、形式に過ぎないと思つた。さう思つて又椅子へ腰を卸した。

 それから三千代の来る迄、代助はどんな風に時を過したか、殆んど知らなかつた。表に女の声がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。彼は論理に於て尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であつた。彼が近来怒れなくなつたのは、全く頭の御蔭で、腹を立てる程自分を馬鹿にすることを、理智が許さなくなつたからである。が其他の点に於ては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされてゐた。取次に出た門野が足音を立てゝ、書斎の入口にあらはれた時、血色のいゝ代助の頬は微かに光沢を失つてゐた。門野は、

「此方にしますか」と甚だ簡単に代助の意向を確めた。座敷へ案内するか、書斎で逢ふかと聞くのが面倒だから、斯う詰めて仕舞つたのである。代助はうんと云つて、入口に返事を待つてゐた門野を追ひ払ふ様に、自分で立つて行つて、椽側へ首を出した。三千代は椽側と玄関の継目の所に、此方を向いてためらつて居た。