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それから 十の四
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夏目漱石
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三千代の顔は此前逢つた時よりは寧ろ蒼白かつた。代助に眼と顎で招かれて書斎の入口へ近寄つた時、代助は三千代の息を喘ましてゐることに気が付いた。
「何うかしましたか」と聞いた。
三千代は何にも答へずに室の中に這入て来た。セルの単衣の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本許提げてゐた。其百合をいきなり洋卓の上に投げる様に置いて、其横にある椅子へ腰を卸した。さうして、結つた許の銀杏返を、構はず、椅子の脊に押し付けて、
「あゝ苦しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑つた。代助は手を叩いて水を取り寄せ様とした。三千代は黙つて洋卓の上を指した。其所には代助の食後の嗽をする硝子の洋盃があつた。中に水が二口許残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が聞いた。
「此奴は先刻僕が飲んだんだから」と云つて、洋盃を取り上げたが、躇した。代助の坐つてゐる所から、水を棄てやうとすると、障子の外に硝子戸が一枚邪魔をしてゐる。門野は毎朝椽側の硝子戸を一二枚宛開けないで、元の通りに放つて置く癖があつた。代助は席を立つて、椽へ出て、水を庭へ空けながら、門野を呼んだ。今ゐた門野は何処へ行つたか、容易に返事をしなかつた。代助は少しまごついて、又三千代の所へ帰つて来て、
「今すぐ持つて来て上げる」と云ひながら、折角空けた洋盃を其儘洋卓の上に置いたなり、勝手の方へ出て行つた。茶の間を通ると、門野は無細工な手をして錫の茶壺から玉露を撮み出してゐた。代助の姿を見て、
「先生、今直です」と言訳をした。
「茶は後でも好い。水が要るんだ」と云つて、代助は自分で台所へ出た。
「はあ、左様ですか。上がるんですか」と茶壺を放り出して門野も付いて来た。二人で洋盃を探したが一寸見付からなかつた。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買ひに行つたといふ答であつた。
「菓子がなければ、早く買つて置けば可いのに」と代助は水道の栓を捩つて湯呑に水を溢らせながら云つた。
「つい、小母さんに、御客さんの呉る事を云つて置かなかつたものですからな」と門野は気の毒さうに頭を掻いた。
「ぢや、君が菓子を買に行けば可いのに」と代助は勝手を出ながら、門野に当つた。門野はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子の外にも、まだ色々買物があるつて云ふもんですからな。足は悪し天気は好くないし、廃せば好いんですのに」
代助は振り向きもせず、書斎へ戻つた。敷居を跨いで、中へ這入るや否や三千代の顔を見ると、三千代は先刻代助の置いて行つた洋盃を膝の上に両手で持つてゐた。其洋盃の中には、代助が庭へ空けたと同じ位に水が這入つてゐた。代助は湯呑を持つた儘、茫然として、三千代の前に立つた。
「何うしたんです」と聞いた。三千代は例の通り落ち付いた調子で、
「難有う。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だつたから」と答へて、リリー、オフ、ゼ、レーの漬けてある鉢を顧みた。代助は此大鉢の中に水を八分目程張つて置いた。妻楊枝位な細い茎の薄青い色が、水の中に揃つてゐる間から、陶器の模様が仄かに浮いて見えた。
「何故あんなものを飲んだんですか」と代助は呆れて聞いた。
「だつて毒ぢやないでせう」と三千代は手に持つた洋盃を代助の前へ出して、透かして見せた。
「毒でないつたつて、もし二日も三日も経つた水だつたら何うするんです」
「いえ、先刻来た時、あの傍迄顔を持つて行つて嗅いで見たの。其時、たつた今其鉢へ水を入れて、桶から移した許だつて、あの方が云つたんですもの。大丈夫だわ。好い香ね」
代助は黙つて椅子へ腰を卸した。果して詩の為に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかつた。よし前者とした所で、詩を衒つて、小説の真似なぞをした受売の所作とは認められなかつたからである。そこで、たゞ、
「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。