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それから 二の三
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夏目漱石
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両人は其所で大分飲んだ。飲む事と食ふ事は昔の通りだねと言つたのが始りで、硬い舌が段々弛んで来た。代助は面白さうに、二三日前自分の観に行つた、ニコライの復活祭の話をした。御祭が夜の十二時を相図に、世の中の寐鎮まる頃を見計つて始る。参詣人が長い廊下を廻つて本堂へ帰つて来ると、何時の間にか幾千本の蝋燭が一度に点いてゐる。法衣を着た坊主が行列して向ふを通るときに、黒い影が、無地の壁へ非常に大きく映る。――平岡は頬杖を突いて、眼鏡の奥の二重瞼を赤くしながら聞いてゐた。代助はそれから夜の二時頃広い御成街道を通つて、深夜の鉄軌が、暗い中を真直に渡つてゐる上を、たつた一人上野の森迄来て、さうして電燈に照らされた花の中に這入つた。
「人気のない夜桜は好いもんだよ」と云つた。平岡は黙つて盃を干したが、一寸気の毒さうに口元を動かして、
「好いだらう、僕はまだ見た事がないが。――然し、そんな真似が出来る間はまだ気楽なんだよ。世の中へ出ると、中々それ所ぢやない」と暗に相手の無経験を上から見た様な事を云つた。代助には其調子よりも其返事の内容が不合理に感ぜられた。彼は生活上世渡りの経験よりも、復活祭当夜の経験の方が、人生に於て有意義なものと考へてゐる。其所でこんな答をした。
「僕は所謂処世上の経験程愚なものはないと思つてゐる。苦痛がある丈ぢやないか」
平岡は酔つた眼を心持大きくした。
「大分考へが違つて来た様だね。――けれども其苦痛が後から薬になるんだつて、もとは君の持説ぢやなかつたか」
「そりや不見識な青年が、流俗の諺に降参して、好加減な事を云つてゐた時分の持説だ。もう、とつくに撤回しちまつた」
「だつて、君だつて、もう大抵世の中へ出なくつちやなるまい。其時それぢや困るよ」
「世の中へは昔から出てゐるさ。ことに君と分れてから、大変世の中が広くなつた様な気がする。たゞ君の出てゐる世の中とは種類が違ふ丈だ」
「そんな事を云つて威張つたつて、今に降参する丈だよ」
「無論食ふに困る様になれば、何時でも降参するさ。然し今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの」
平岡の眉の間に、一寸不快の色が閃めいた。赤い眼を据ゑてぷか/\烟草を吹かしてゐる。代助は、ちと云ひ過ぎたと思つて、少し調子を穏やかにした。――
「僕の知つたものに、丸で音楽の解らないものがある。学校の教師をして、一軒ぢや飯が食へないもんだから、三軒も四軒も懸け持をやつてゐるが、そりや気の毒なもんで、下読をするのと、教場へ出て器械的に口を動かしてゐるより外に全く暇がない。たまの日曜抔は骨休めとか号して一日ぐう/\寐てゐる。だから何所に音楽会があらうと、どんな名人が外国から来やうと聞に行く機会がない。つまり楽といふ一種の美くしい世界には丸で足を踏み込まないで死んで仕舞はなくつちやならない。僕から云はせると、是程憐れな無経験はないと思ふ。麺麭に関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。麺麭を離れ水を離れた贅沢な経験をしなくつちや人間の甲斐はない。君は僕をまだ坊っちやんだと考へてるらしいが、僕の住んでゐる贅沢な世界では、君よりずつと年長者の積りだ」
平岡は巻莨の灰を、皿の上にはたきながら、沈んだ暗い調子で、
「うん、何時迄もさう云ふ世界に住んでゐられゝば結構さ」と云つた。其重い言葉の足が、富に対する一種の呪咀を引き摺つてゐる様に聴えた。