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それから 十三の八

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それから 十三の八

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夏目漱石

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 此言葉を聞いたとき、代助は平岡が悪くなつた。あからさまに自分の腹の中を云ふと、そんなに家庭が嫌なら、嫌でよし、其代り細君を奪つちまふぞと判然知らせたかつた。けれども二人の問答は、其所迄行くには、まだ中中間があつた。代助はもう一遍外の方面から平岡の内部に触れて見た。

「君が東京へ着たてに、僕は君から説教されたね。何か遣れつて」

「うん。さうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた」

 代助は実際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に罹つた人間の如く行為に渇いてゐた。彼は行為の結果として、富を冀つてゐたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀つてゐたか。夫でなければ、活動としての行為其物を求めてゐたか。それは代助にも分らなかつた。

「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、あゝ云ふ消極な意見も出すが。――元来意見があつて、人がそれに則るのぢやない。人があつて、其人に適した様な意見が出て来るのだから、僕の説は僕丈に通用する丈だ。決して君の身の上を、あの説で、何うしやうの斯うしやうのと云ふ訳ぢやない。僕はあの時の君の意気に敬服してゐる。君はあの時自分で云つた如く、全く活動の人だ。是非共活動して貰ひたい」

「無論大いに遣る積だ」

 平岡の答はたゞ此一句限であつた。代助は腹の中で首を傾けた。

「新聞で遣る積かね」

 平岡は一寸躇した。が、やがて、判然云ひ放つた。――

「新聞にゐるうちは、新聞で遣る積だ」

「大いに要領を得てゐる。僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」

「出来る積だ」と平岡は簡明な挨拶をした。

 話は此所迄来ても、たゞ抽象的に進んだ丈であつた。代助は言葉の上でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事は些とも出来なかつた。代助は何となく責任のある政府委員か弁護士を相手にしてゐる様な気がした。代助は此時思ひ切つた政略的な御世辞を云つた。それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加はつて斃れたため、当時の人から偶像視されて、とう/\軍神と迄崇められた。けれども、四五年後の今日に至つて見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。英雄の流行廃はこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於て、英雄とは其時代に極めて大切な人といふ事で、名前丈は偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だらうが、平和克復の暁には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対しても現金である。だから、斯う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行はれてゐる。さう云ふ訳で、代助は英雄なぞに担がれたい了見は更にない。が、もし茲に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄になつた方が長持がする。新聞は其方面の代表的事業である。

 代助は此所迄述べて見たが、元来が御世辞の上に、云ふ事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、気が乗らなかつた。平岡は其返事に、

「いや難有う」と云つた丈であつた。別段腹を立てた様子も見えなかつたが、些とも感激してゐないのは、此返事でも明かであつた。

 代助は少々平岡を低く見過ぎたのに恥ぢ入つた。実は此側から、彼の心を動かして、旨く油の乗つた所を、中途から転がして、元の家庭へ滑り込ませるのが、代助の計画であつた。代助は此迂遠で、又尤も困難の方法の出立点から、程遠からぬ所で、蹉跌して仕舞つた。