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それから 十五の四

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それから 十五の四

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夏目漱石

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 定刻になつて、代助は出掛けた。足駄穿で雨傘を提げて電車に乗つたが、一方の窓が締め切つてある上に、革紐にぶら下がつてゐる人が一杯なので、しばらくすると胸がむかついて、頭が重くなつた。睡眠不足が影響したらしく思はれるので、手を窮屈に伸ばして、自分の後丈を開け放つた。雨は容赦なく襟から帽子に吹き付けた。二三分の後隣の人の迷惑さうな顔に気が付いて、又元の通りに硝子窓を上げた。硝子の表側には、弾けた雨の珠が溜つて、往来が多少歪んで見えた。代助は首から上を捩ぢ曲げて眼を外面に着けながら、幾たびか自分の眼を擦すつた。然し何遍擦つても、世界の恰好が少し変つて来たと云ふ自覚が取れなかつた。硝子を通して斜に遠方を透かして見るときは猶左様いふ感じがした。

 弁慶橋で乗り換えてからは、人もまばらに、雨も小降りになつた。頭も楽に濡れた世の中を眺める事が出来た。けれども機嫌の悪い父の顔が、色々な表情を以て彼の脳髄を刺戟した。想像の談話さへ明かに耳に響いた。

 玄関を上つて、奥へ通る前に、例の如く一応嫂に逢つた。嫂は、

「鬱陶しい御天気ぢやありませんか」と愛想よく自分で茶を汲んで呉れた。然し代助は飲む気にもならなかつた。

「御父さんが待つて御出でせうから、一寸行つて話をして来ませう」と立ち掛けた。嫂は不安らしい顔をして、

「代さん、成らう事なら、年寄に心配を掛けない様になさいよ。御父さんだつて、もう長い事はありませんから」と云つた。代助は梅子の口から、こんな陰気な言葉を聞くのは始めてであつた。不意に穴倉へ落ちた様な心持がした。

 父は烟草盆を前に控えて、俯向いてゐた。代助の足音を聞いても顔を上げなかつた。代助は父の前へ出て、叮嚀に御辞儀をした。定めて六づかしい眼付をされると思ひの外、父は存外穏かなもので、

「降るのに御苦労だつた」と労はつて呉れた。其時始めて気が付いて見ると、父の頬が何時の間にかぐつと瘠けてゐた。元来が肉の多い方だつたので、此変化が代助には余計目立つて見えた。代助は覚えず、

「何うか為さいましたか」と聞いた。

 父は親らしい色を一寸顔に動かした丈で、別に代助の心配を物にする様子もなかつたが、少時話してゐるうちに、

「己も大分年を取つてな」と云ひ出した。其調子が何時もの父とは全く違つてゐたので、代助は最前嫂の云つた事を愈重く見なければならなくなつた。

 父は年の所為で健康の衰へたのを理由として、近々実業界を退く意志のある事を代助に洩らした。けれども今は日露戦争後の商工業膨脹の反動を受けて、自分の経営にかゝる事業が不景気の極端に達してゐる最中だから、此難関を漕ぎ抜けた上でなくては、無責任の非難を免かれる事が出来ないので、当分已を得ずに辛抱してゐるより外に仕方がないのだと云ふ事情を委しく話した。代助は父の言葉を至極尤もだと思つた。

 父は普通の実業なるものゝ困難と危険と繁劇と、それ等から生ずる当事者の心の苦痛及び緊張の恐るべきを説いた。最後に地方の大地主の、一見地味であつて、其実自分等よりはずつと鞏固の基礎を有してゐる事を述べた。さうして、此比較を論拠として、新たに今度の結婚を成立させやうと力めた。

「さう云ふ親類が一軒位あるのは、大変な便利で、且つ此際甚だ必要ぢやないか」と云つた。代助は、父としては寧ろ露骨過ぎる此政略的結婚の申し出に対して、今更驚ろく程、始めから父を買ひ被つてはゐなかつた。最後の会見に、父が従来の仮面を脱いで掛かつたのを、寧ろ快よく感じた。彼自身も、斯んな意味の結婚を敢てし得る程度の人間だと自ら見積てゐた。

 其上父に対して何時にない同情があつた。其顔、其声、其代助を動かさうとする努力、凡てに老後の憐れを認める事が出来た。代助はこれをも、父の策略とは受取り得なかつた。私は何うでも宜う御座いますから、貴方の御都合の好い様に御極めなさいと云ひたかつた。