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三四郎 十の七

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三四郎 十の七

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夏目金之助

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 三四郎は此画家の話を甚だ面白く感じた。とくに話丈聴きに来たのならば猶幾倍の興味を添へたらうにと思つた。三四郎の注意の焼点は、今、原口さんの話の上にもない、原口さんの画の上にもない。無論向に立つてゐる美禰子に集まつてゐる。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、眼丈は遂に美禰子を離れなかつた。彼の眼に映じた女の姿勢は、自然の経過を、尤も美くしい刹那に、捕虜にして動けなくした様である。変らない所に、永い慰藉がある。然るに原口さんが突然首を捩つて、女に何うかしましたかと聞いた。其時三四郎は、少し恐ろしくなつた位である。移り易い美さを、移さずに据ゑて置く手段が、もう尽きたと画家から注意された様に聞えたからである。

 成程さう思つて見ると、何うかしてゐるらしくもある。色光沢が好くない。眼尻に堪へ難い嬾さが見える。三四郎は此活人画から受ける安慰の念を失つた。同時にもしや自分が此変化の源因ではなからうかと考へ付いた。忽ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲つて来た。移り行く美を果敢なむと云ふ共通性の情緒は丸で影を潜めて仕舞つた。――自分はそれ程の影響を此女の上に有して居る。――三四郎は此自覚のもとに一切の己れを意識した。けれどもその影響が自分に取つて、利益か不利益かは未決の問題である。

 其時原口さんが、とう/\筆を擱いて、

「もう廃さう。今日は何うしても駄目だ」と云ひ出した。美禰子は持つてゐた団扇を、立ちながら、床の上に落した。椅子に掛けた、羽織を取つて着ながら、此方へ寄つて来た。

「今日は疲れてゐますね」

「私?」と羽織の裄を揃へて、紐を結んだ。

「いや実は僕も疲れた。また明日元気の好い時に遣りませう。まあ御茶でも飲んで、緩なさい」

 夕暮には、まだ間があつた。けれども美禰子は少し用があるから帰るといふ。三四郎も留められたが、わざと断わつて、美禰子と一所に表へ出た。日本の社会状態で、かう云ふ機会を、随意に造る事は、三四郎に取つて困難である。三四郎は成るべく此機会を長く引き延ばして利用しやうと試みた。それで、比較的人の通らない、閑静な曙町を、一廻り散歩しやうぢや無いかと女を誘つて見た。所が相手は案外にも応じなかつた。一直線に生垣の間を横切つて、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、

「原口さんも左う云つてゐたが、本当に何うかしたんですか」と聞いた。

「私?」と美禰子が又云つた。原口さんに答へたと同じ事である。三四郎が美禰子を知つてから、美禰子はかつて、長い言葉を使つた事がない。大抵の応対は一句か二句で済ましてゐる。しかも甚だ単簡なものに過ぎない。それでゐて、三四郎の耳には、一種の深い響を与へる。殆んど他の人からは、聞き得る事の出来ない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がつた。

「私?」と云つた時、女は顔を半分程三四郎の方へ向けた。さうして二重瞼の切れ目から男を見た。其眼には暈が被つてゐる様に思はれた。何時になく感じが生温く来た。頬の色も少し蒼い。

「色が少し悪い様です」

「左うですか」

 二人は五六歩無言であるいた。三四郎は何うともして、二人の間に掛かつた薄い幕の様なものを裂き破りたくなつた。然し何と云つたら破れるか、丸で分別が出なかつた。小説などにある甘い言葉は遣いたくない。趣味の上から云つても、社交上若い男女の習慣としても、遣い度ない。三四郎は事実上不可能の事を望んでゐる。望んでゐる許ではない、歩きながら工夫してゐる。