title
三四郎 二の三
author
夏目金之助
body
其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覧なさい」と勧めた。三四郎は面白半分、石の台の二三間手前にある望遠鏡の傍へ行つて、右の眼をあてがつたが、何にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「一向見えません」と答へると、「うんまだ蓋が取らずにあつた」と云ひながら、椅子を立つて望遠鏡の先に被せてあるものを除けて呉れた。
見ると、ただ輪廓のぼんやりした明るいなかに、物差の度盛がある。下に2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と云ふと、「今に動きます」と云ひながら向へ廻つて何かしてゐる様であつた。
やがて度盛が明るい中で動き出した。2が消えた。あとから3が出る。其あとから4が出る。5が出る。とう/\10迄出た。すると度盛がまた逆に動き出した。10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1迄来て留つた。野々宮君は又「どうです」と云ふ。三四郎は驚ろいて、望遠鏡から眼を放して仕舞つた。度盛の意味を聞く気にもならない。
丁寧に礼を述べて穴倉を上がつて、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかん/\してゐる。暑いけれども深い呼息をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂上の両側にある工科の建築の硝子窓が燃える様に輝やいてゐる。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の焔が、薄赤く吹き返して来て、三四郎の頭の上迄熱つてゐる様に思はれた。横に照り付ける日を半分脊中に受けて、三四郎は左りの森の中へ這入つた。其森も同じ夕日を半分脊中に受けて入る。黒ずんだ蒼い葉と葉の間は染めた様に赤い。太い欅の幹で日暮しが鳴いてゐる。三四郎は池の傍へ来てしやがんだ。
非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通る筈の電車は、大学の抗議で小石川を回る事になつたと国にゐる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端にしやがみながら、不図此事件を思ひ出した。電車さへ通さないと云ふ大学は余程社会と離れてゐる。
たま/\其中に這入つて見ると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしてゐる野々宮君の様な人もゐる。野々宮君は頗る質素な服装をして、外で逢へば電燈会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣つてゐるから偉い。然し望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたつて現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。要するに此静かな空気を呼吸するから、自からあゝ云ふ気分にもなれるのだらう。自分もいつその事気を散らさずに、活きた世の中と関係のない生涯を送つて見様かしらん。
三四郎が凝として池の面を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、其又底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且つ遥かな心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲の様な淋しさが一面に広がつて来た。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人で坐つて居るかと思はれる程な寂寞を覚えた。熊本の高等学校に居る時分も是より静かな龍田山に上つたり、月見草ばかり生えてゐる運動場に寐たりして、全く世の中を忘れた気になつた事は幾度となくある。けれども此孤独の感じは今始めて起つた。
活動の劇しい東京を見たためだらうか。或は――三四郎は赤くなつた。汽車で乗り合はした女の事を思ひ出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界は危なくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰つて、母に手紙を書いてやらうと思つた。