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三四郎 三の十

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三四郎 三の十

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夏目金之助

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 五六間行くか行かないうちに、又一人土手から飛び下りたものがある。――

「轢死ぢやないですか」

 三四郎は何か答へやうとしたが一寸声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐる家の主人だらうと、後を跟けながら考へた。半町程くると提燈が留つてゐる。人も留つてゐる。人は灯を翳した儘黙つてゐる。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上迄美事に引き千切つて、斜掛の胴を置き去りにして行つたのである。顔は無創である。若い女だ。

 三四郎は其時の心持を未だに覚えてゐる。すぐ帰らうとして、踵を回らしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土堤を這ひ上つて、座敷へ戻つたら、動悸が打ち出した。水を貰はうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何にも知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、何だか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰つたんだなと覚つた。やがて土手の下ががや/\する。それが済むと又静かになる。殆んど堪え難い程の静かさであつた。

 三四郎の眼の前には、あり/\と先刻の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、継ぎ合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きさうに思はれる。三四郎は慾も得も入らない程怖かつた。たゞ轟と云ふ一瞬間である。其前迄は慥かに生きてゐたに違ない。

 三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、危ない/\、気を付けないと危ない、と云つた事を思ひ出した。危ない/\と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまり危ない/\と云ひ得る程に、自分は危なくない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世の中にゐて、世の中を傍観してゐる人は此所に面白味があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、凝つと正面を見てゐた様子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分で旨いと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄い死顔を見るとこんな気も起る。

 三四郎は室の隅にある洋机と、洋机の前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、其本箱の中に行儀よく並べてある洋書を見廻して、此静かな書斎の主人は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思つた。――光線の圧力を研究する為に、女を轢死させる事はあるまい。主人の妹は病気である。けれども兄の作つた病気ではない。自から罹つた病気である。抔と夫から夫へと頭が移つて行くうちに、十一時になつた。中野行の電車はもう来ない。或は病気がわるいので帰らないのかしらと、又心配になる。所へ野々宮から電報が来た。妹無事、明日朝帰るとあつた。

 安心して床に這入つたが、三四郎の夢は頗る危険であつた。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つて家へ帰つて来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽はりで、今夜轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池の端で逢つた女である。……

 三四郎は明日例になく早く起きた。