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三四郎 三の十四
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夏目金之助
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女はやがて元の通りに向き直つた。眼を伏せて二足許三四郎に近付いた時、突然首を少し後に引いて、まともに男を見た。二重瞼の切長の落付いた恰好である。目立つて黒い眉毛の下に活きてゐる。同時に奇麗な歯があらはれた。此歯と此顔色とは三四郎に取つて忘るべからざる対照であつた。
今日は白いものを薄く塗つてゐる。けれども本来の地を隠す程に無趣味ではなかつた。濃やかな肉が、程よく色づいて、強い日光に負げない様に見える上を、極めて薄く粉が吹いてゐる。てら/\照る顔ではない。
肉は頬と云はず顎と云はずきちりと締つてゐる。骨の上に余つたものは沢山ない位である。それでゐて、顔全体が柔かい。肉が柔らかいのではない、骨そのものが柔らかい様に思はれる。奥行の長い感じを起させる顔である。
女は腰を曲めた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚ろいたと云ふよりも、寧ろ礼の仕方の巧みなのに驚ろいた。腰から上が、風に乗る紙の様にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄来て苦もなく確然と留つた。無論習つて覚えたものではない。
「一寸伺ひますが……」と云ふ声が白い歯の間から出た。きりゝとしてゐる。然し鷹揚である。たゞ夏のさかりに椎の実が生つてゐるかと人に聞きさうには思はれなかつた。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。
「はあ」と云つて立ち留つた。
「十五号室はどの辺になりませう」
十五号は三四郎が今出て来た室である。
「野々宮さんの室ですか」
今度は女の方が「はあ」と云ふ。
「野々宮さんの部屋はね、其角を曲つて突き当つて、又左へ曲がつて、二番目の右側です」
「其角を……」と云ひながら女は細い指を前へ出した。
「えゝ、つい其先の角です」
「どうも難有う」
女は行き過ぎた。三四郎は立つたまゝ、女の後姿を見守つてゐる。女は角へ来た。曲がらうとする途端に振り返つた。三四郎は赤面する許りに狼狽した。女はにこりと笑つて、此角ですかと云ふ様な相図を顔でした。三四郎は思はず首肯いた。女の影は右へ切れて白い壁の中へ隠れた。
三四郎はぶらりと玄関を出た。医科大学生と間違へて室の番号を聞いたのかしらんと思つて、五六歩あるいたが、急に気が付いた。女に十五号を聞かれた時、もう一辺よし子の室へ後戻りをして、案内すればよかつた。残念な事をした。
三四郎は今更取つて帰す勇気は出なかつた。已を得ず又五六歩あるいたが、今度はぴたりと留つた。三四郎の頭の中に、女の結んでゐたリボンの色が映つた。其リボンの色も質も、慥かに野々宮君が兼安で買つたものと同じであると考へ出した時、三四郎は急に足が重くなつた。図書館の横をのたくる様に正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声を掛けた。
「おい何故休んだ。今日は以太利人がマカロニーを如何にして食ふかと云ふ講義を聞いた」と云ひながら、傍へ寄つて来て三四郎の肩を叩いた。
二人は少し一所にあるいた。正門の傍へ来た時、三四郎は、
「君、今頃でも薄いリボンを掛けるものかな。あれは極暑に限るんぢやないか」と聞いた。与次郎はアハヽヽと笑つて、
「○○教授に聞くがいゝ。何でも知つてる男だから」と云つて取り合はなかつた。
正門の所で三四郎は具合が悪いから今日は学校を休むと云ひ出した。与次郎は一所に跟いて来て損をしたと云はぬ許りに教室の方へ帰つて行つた。