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三四郎 四の八
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夏目金之助
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三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂明治十五年以前の香がする。凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気てゐる。尤も帰るに世話は入らない。戻らうとすれば、すぐに戻れる。たゞ、いざとならない以上は戻る気がしない。云はゞ立退場の様なものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、此立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さへ此所に葬つたかと思ふと、急に勿体なくなる。そこで手紙が来た時丈は、しばらく此世界に徊して旧歓を温める。
第二の世界のうちには、苔の生えた錬瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよく分らない程に広い閲覧室がある。梯子を掛けなければ、手の届きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺れ、指の垢、で黒くなつてゐる。金文字で光つてゐる。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積つた塵がある。此塵は二三十年かゝつて漸く積つた貴とい塵である。静かな月日に打ち勝つ程の静かな塵である。
第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは俯向いて歩いてゐる。服装は必ず穢ない。生計は屹度貧乏である。さうして晏如としてゐる。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚からない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。広田先生は此内にゐる。野々宮君も此内にゐる。三四郎は此内の空気を略解し得た所にゐる。出れば出られる。然し折角解し掛けた趣味を思ひ切つて捨てるのも残念だ。
第三の世界は燦として春の如く盪いてゐる。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つ三鞭の盃がある。さうして凡ての上の冠として美くしい女性がある。三四郎はその女性の一人に口を利いた。一人を二遍見た。此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。此世界は鼻の先にある。たゞ近づき難い。近づき難い点に於て、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに陥欠が出来る様な気がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい。それにも拘はらず、円満の発達を冀ふべき筈の此世界が、却つて自らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでゐる。三四郎にはこれが不思議であつた。
三四郎は床のなかで、此三の世界を並べて、互に比較して見た。次に此三の世界を掻き混ぜて、其中から一つの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美くしい細君を迎へて、さうして身を学問に委ねるに越した事はない。
結果は頗る平凡である。けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、夫程平凡ではなかつた。
たゞかうすると広い第三の世界を眇たる一個の細君で代表させる事になる。美くしい女性は沢山ある。美くしい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならつて、翻訳と云ふ字を使つて見た。――苟しくも人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、其翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を完からしむる為に、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知つて甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。
三四郎は論理を此所迄延長して見て、少し広田さんにかぶれたなと思つた。実際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである。